文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

マグヌードルに待ち時間有り

 突然ながら諸賢は「マグヌードル」を食するとき、熱湯を注ぎてのち如何ほど待ち給ふや。吾人幼時よりマグヌードルを好みたれど、熱湯を注ぎつれば待ち時間を設くることなく箸にてしばらく掻き混ぜてのちそのまま食するを常とせり。

 ところが先日、湯の沸くを待ちがてら全く何気なく外装を見し時、そこに「熱湯を入れて2分待つべし」との文言を目にして驚愕せり。

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吃驚

 なんと2分とは! 普通のカップヌードルとさして変はらぬには非ずや。

 されど作り手の言ふことなればと、疑念は大いに抱きつつも試みに指示に従ひて2分待ち、のち食ひ始む。即ち認めたり。諸賢、マグヌードルは2分待つべし。

 これまで食せしに比べて、麺の質向上して食感豊かになれりと感ぜらる。待ちたる分いはば「伸びた」状態に成りたるなれば当然とは雖も、この状態こそマグヌードルの本来の姿なりけれと気付かるる也。

 是、例の「少しのことにも先達は有らましきことなり」なる警句を想起せしむる一事件なりき。

 以下余談。吾人按ずるに、マグヌードルの一番旨き時間帯は深夜なり、則ち夜食なり。啜り始むれば、少時ありて麺尽くと見ゆ。されどいぢましく汁を飲み続けたれば、やがてマグの底に思ひがけぬほど多くの麺の沈み残れるに出で会ふ。これ小確幸と言はざるべからず。

 

 

綾鷹を未だ許さず

 かつてナンシー関野島伸司の書くドラマを下記の如く批判せること有り。

野島伸司は、何の責任も取る積もり無き也。... 野島ドラマに欠かせずとせられたるものに「めくるめく過激」有り。... しかしてこれらの「過激」には全て保険 掛けられたり。のちほど誰よりも怒らるることの無きやうにとて也。*1

 さて、吾人もこの「保険の掛けられたる過激」を見て怒りしこと有り。相手はコカ・コーラ社の日本茶綾鷹」なり。

 話は5年ほど前、綾鷹のCMに大々的に使はれたるキャッチコピー有り。「日本人の味覚は、世界一繊細だと思ふ*2」、是なり。

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出典:https://www.catchcopy-gallery.com/beverage/ayataka-taste-of-japanese/

 吾人之を見て怒り心頭に発し、「綾鷹 二度とふたたび購ふまじ」と決意し且つ実行せり。

 吾人の癇に障れるは、「日本人の味覚は世界一繊細」といふ傲慢なる主張そのものには在らず。無論これとて好ましきものとは思はざるも、少なくともそれは一つの主張にして、またプロレス的挑発として鷹揚に受け取る余地もあり。このキャッチコピーを見て、各国の人々「否、我が国人の味覚こそ世界一繊細なれ!」と次々に声を上げたらば面白かるべし。

 しかるに、このコピーはここに「と思ふ」と付け加へたり。いはゆる「※個人の感想です。」の類なり。これ上記の「保険」に外ならず。これによりて、「日本人の味覚は世界一繊細」と、言ひたきことは言ひて他国の人を無根拠に貶めながら、「断定には非ず、感想に過ぎず」とて外部よりの反論を無効化したり。なほ且つ、「思ふ」の主語は明示せず。これ豈に悪辣ならずや、卑怯ならずや。吾人の怒りは正にこの点に在り。

 今は綾鷹のCMに彼のキャッチコピー使はれざるも、吾人未だに綾鷹を購ふことなし。幸ひにして茶には他に選択肢多ければ、さして困ずることもなきなり。  

 

*1:拙訳。原文は、「野島伸司って、何も責任取る気がないのである。(略)野島ドラマに欠かせないとされるのが「めくるめく過激」である。(略)これらの「過激」には全て保険がかけてあるのだ。あとで誰からも怒られないように。」(『何もそこまで』、1996年、第4章)。

*2:当然ながら原文は現代仮名遣ひなり。調和のため表記を改めつ。

 

『SMAP×SMAP』の思ひ出

 小学生の頃、我が家には「子供は夜9時半までに就寝すべし」なる規則有り。それ子供にとりて何を意味するかと言はば、「夜10時台のテレビ番組を見ること能はず」といふことを意味せり。

 しかるに当時――90年代後半のことなりき――午後10時台にいかなる番組の放送せられたるか? 吾人の記憶せるは只一つのみ、『SMAP×SMAP』これ也。月曜日の10時より放送せられたる1時間番組なりき。

 当時、我が家の子供がこの番組を見ることを許さるるは、夏休み等の長期休暇中か、普段と放送日を変へて祝日等に放送したる場合か、若しくは翌火曜日が祝日に当たれる場合のみなりき。当時はいはゆるハッピーマンデー制度の施行以前なれば、火曜日が祝日になるケース今より多かりきとは雖も、低頻度なることは確かなり。よって当時の吾人にとりて「火曜休み」は一種特別の意味を有したり。

 今にして思へば、何ゆゑに『SMAP×SMAP』をかやうに特別視せしか疑問に思はる。彼の6(→5)人組を殊に愛好せしには非ず(ただ、個々としてだに人気有りしメンバーの勢揃ひしたる様子に特別感を抱きたるかとも想像せらる)。また番組内の色々のコーナーを甚だ面白く感じたりとも考へ難し。されば、当時の大人気番組なりしことと、また何と言ひても「普段は見ることを得ず」といふ状況そのものが、吾人にとりての本番組の価値をして高からしめたりと考ふるが最も自然ならん。

 事実、中学生になりて就寝時間の規定がめでたくも撤廃させし後、特にこの番組を熱心に見たりといふ記憶なし。やはり番組そのものの魅力と言はんよりは、一種の特別感の作用なりけん。

 さはあれど、暦の巡り合はせに依りて午後10時に起きたることを許され、あのロート製薬のオープニングを見たる時の高揚感は今も記憶にあり。その意味において『SMAP×SMAP』は今以て吾人にとりて特別なる深夜番組と言ふべし。

 

 

 

山本夏彦『完本 文語文』を読み(終へざり)し事

 グーグルにて「文語文」と検索するに筆頭に挙がる一書が山本夏彦『完本 文語文』(文藝春秋、2000年)なり。本自体は以前より知りたるも読みたることはなかりしを、吾人が文を綴るにも参考にならんかと思ひて図書館にて借りたり。

 さて読み始めたるに、程なくして「これは吾人には合はざるな」と察せられぬ。文語文の称揚を基本的態度とせるやうなるが、吾人にとりては説得せられざるところ余りに多ければ也。一例を挙ぐれば斯くの如し。

 和漢の古典には文脈に混乱がない。混乱が生じたのは大正期の岩波用語の時代からである。それまでの文にはリズムがあったから暗誦にたえた。(11頁)

 「和漢の古典には文脈に混乱がない」とは、一体いかほどの「和漢の古典」を検討したる結果さやうなる断定に至りしかと疑念を差し挟まざるを得ず。あるいは寧ろ、著者が「文脈に混乱がない」と判断せるを以て「古典」と認定せるならんか。「それまでの文にはリズムがあった」といふも、書かれたるもの一般を指せるか、文芸に限って指せるか、はたまた文芸の中でも著者が「古典」と認定せるものに限って指せるか、不明なり。要するに「昔の歌は良かりき」なる述懐と同レベルの言説と吾人には思はる。

 また著者は次のやうにも述べたり。 

生活がないから真の文語ではない。(18頁)

むろん私は文語は書けないが、なぜ書けないかは知っている。生活がなくなったからである。それはキモノの生活がないのに似ている。(略)あるのは似てはいても違うものである。(17頁)

昭和二十年敗戦の日までカタカナまじりの文語は、陸海軍に残っていたが、それは口語で生れ口語で育ったものの文語だからむろん本物の妙趣はなかった。(22頁)

 かやうに著者は「真の文語」の存在を主張す、されば真ならざる文語もありとの意趣なるべし。それは「生活」なくして書かれたる文語にして、「似てはいても違うもの」なれば「本物の妙趣はな」きもの、と判定せらる。しかるに肝心の、著者がいかにして「真」なりや否やを実際の文章から判断したるかの根拠は示さるることなし。

    かやうなる類の、得心のゆかざる記述あまりに多ければ、20頁ほど読みたるところにて断念しつ。

 但し、面白く読みたるところも無きには非ず。例へば、谷崎潤一郎菊池寛が「弔辞」に文語文を用ゐることありし例示(41~43頁)は面白く思へり。また次の如き記述にも関心を持ちたり。

佐藤(引用者注、春夫)は自他の著書の序文や跋文に、また漢詩の翻訳に好んで文語を用いてその妙趣を伝えた。(21頁)

漱石の弟子はたくさんいるが、英文学を継いだ者はいても漢詩文の遺鉢(ママ)を継いだ者はいなかった。(15頁)

昭和三十八年から二十年あまり私は森銑三翁から毎月候文の手紙をもらった。(略)毎月私の雑誌を贈呈すると、そのつどこまごま批評してくれる、それが全文候文なのである。翁は候文最後の人だった。(26頁)

 

 

シュールは身近に在り

 風呂の湯に浸かりたる時などに、吾人ぢっと手を見つむること有り。生活苦のためには非ず。ただ手といふものを興味深く思へば也。

 日常の生活において余りに当り前に自然に駆使したれば気に掛からぬことなるが、この手といふものは実に奇妙なる器官なり。掌といふ一つの塊より数本の棒にょきにょきとまた整然と生え居りて、(関節の制限下に在りと雖も)吾人そのそれぞれを自在に動かすを得。象が鼻を実に器用に動かすを見て我々は驚けど、象は人間が指先を動かす器用さに驚くべからん。

 何気なく両手を並べ見るに、おほかた左右対称を成したることを認めて改めて面白がりなどもす。

 幼時、眠られぬ夜などに枕元の電灯によりて手の影を天井に映じて、色々に動かして楽しむこと有り。天井に映りたる手は、吾人の動きに応じたりと雖も、もはや独自に動き居れるが如く見ゆ。己れに備はれる器官なれど、否、己れに備はれればこそ、その滑らかなる動きに不気味さを覚ゆ。昔『アダムス・ファミリー』なる洋画に、手のみの化物ありしが、身近なるものも視点を変へて見ば恐ろしくも滑稽にも見ゆることを上手く表はしたりと思ふ。

   * * * * *

 かくの如く、身近なる物を先入観を捨てて清新なる気持ちにて見つめ直したる時に一種の超現実的なる印象を受くることあり。吾人そのやうなる経験を楽しく思ふ。

 月もまたその一例なりとす。

 吾人、夜空の月を見上げて驚嘆の念に打たるること有り。そのさま、巨大なる球体 空中にぽっかりと浮かびて静止せり、しかして人々はそのことを毫も気に掛けざるやうにして平然と歩きたり。是、まさしくシュールレアリスムの光景に外ならず。ルネ・マグリットの代表作の一つに、青空に浮かびたる巨石を描きたるもの有り(「ピレネーの城」)。あの絵の光景をシュールと言はば、何ぞこの夜空の月をシュールと言はざるべけんや。

 SF作家アーサー・C・クラークに、「充分に発達したる科学技術は魔法と見分くること能はず(Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic)」といふ有名なる格言あり。これに即して言はば、科学的知識の著しく欠落したる吾人にとりては大方の科学的現象は魔法と等しく見ゆる也。  

 

 

『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き』を見てカメラマンの忍耐に感謝す

 吾人、犬派・猫派で言はば明確なる犬派なり。然りと雖も猫をも大いに好みたり。殊に近年、猫へのシンパシイを増したるやうに思はる。

 吾人の好みたる猫の姿の一つに、その横顔あり。何かを熱心に見つむる猫の横顔は、真剣でありながら何故かそこに或る種の"をかしみ"が感得せらるる也。

 

 猫の写真家として高名なる岩合光昭の監督・撮影『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』を映画館にて鑑賞せり。


『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』特報60秒

 

 幸か不幸か(吾人にとりては幸、劇場にとりては不幸)席はガラガラなりしかば、三密のプレッシャーを感ずることなく鑑賞することを得たり。

 さて本作は、NHKにて放送せられたる『岩合光昭の世界ネコ歩き』なる番組の劇場版にして、内容的には映画ならではといふ感じはあまりせざるが、猫が活き活きと動きたるを見るに、大画面に越したることはなし。『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』といふタイトルもいささかとっ散らかりたる感あれど、上述の如くテレビ番組の劇場版なれば、これは『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』やら『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』やらと同じと思はば さしたる違和感もなし。

 

 舞台は北海道の牧場とミャンマーの湖上住居と也。この二地点を数往復する形で、双方の猫らの生活が一年にわたりフィルム上に繰り広げらるるなり。

 両編とも面白き映像に満ちたるが、吾人はミャンマー編をとりわけ面白く見つ。猫と人間との距離感 絶妙にして、猫はその家にて飼はると言はんよりはその家の人々と共に暮らしたる様子なり。このやうに言葉にせば些か陳腐なるが、その様子が実際に映像によりて伝はり来たる点、甚だ良し。また、人間の猫への愛情が確かに猫に通じたることが映像より伝はり来たる点もまた実に良し。

 加へて、ミャンマー・インレー湖の風景良し。湖の上に家を建てたる水上生活(映画に登場せる一家は大工仕事と漁業とによりて生計を立てたり)は、最初は異様に見えたれども、見進むる内に、むしろこれこそ人間のあるべき生活様式ならめと思はれ来。それほどに穏やかなる風景なり。小さき手こぎボート(モーター補助付)にて漁に出でたるに、舳先に数匹の猫乗りて前を見つめたるシーン、実に良し(ビヨっと湖に跳び込みたるシーンは必見なり)。上昇するドローンによりて湖の様子が段々広がりて見ゆるシーンも印象的なりき。

 他方の北海道編にも面白き映像豊富なり。ただ、環境の過酷なることと猫の数多くして縄張り争ひなど有ることとにて、切なきシーンも見えたり。吾人が最も悲痛に感じたるは、兄弟の子猫 住処の前の杭に登りて遊びたりしが、冬の風邪にて一匹しか生き残るを得ず、その猫 大きくなりて一匹にて所在なげにその杭に登りたるシーンなり。

 

 さやうなるシーンもありはすれど、もちろん本作は基本的には人の傍らに生きたる猫々の色々なる姿を楽しく眺めしむる映画なり。そのめくるめく映像には、心底感心せらる。これほど多様なる猫の姿をフィルムに収めん為には、膨大の時間と労力とを費やしけむこと、想像に難からず。何しろ相手はかの猫なり、演技せしむる能はず。その猫を相手に、ひたすらに好シーンの偶発を求めてカメラを向け続けたるその蓄積によりて作り上げられたる作品なり。カメラマンを筆頭とする諸スタッフの愛情と忍耐との賜と言ふべし。その貴重なる成果物を、いささかの対価によって見ることを得る、実に有難しと言はざるべからず。

 映画として体裁のために、猫の暮らしに過剰に「物語」を見出さんことを危惧したれど、(さういふ点も無きにしも非ずとは雖も)その点を強調したる作りには非ざりしことも好印象なり。

 また、映画なれば映像がメインなるは当然ながら、写真家としての岩合光昭の仕事も反映せられたる作りになりたるは良き工夫と思ふ。

 BGMやナレーションの比較的控へめなるも良き点なり。欲を言はば、もっともっと、極限まで減らし呉れたくは思へど。ただ、テレビの動物モノにしばしばある、足音等に効果音を付けたり果ては喋らせたりするが如き愚の骨頂は、この映画一切犯したらず。当然のこととは雖も、本作未見の諸賢 この点 安心せられよかし。

 

 

文語文の硬と軟と

 硬と軟とを使ひ分くるはエッセイの勘所と思はる。

 一例として、最近ナンシー関のエッセイ集を読み居れるが、かの人は「~である」式の硬き表現を旨としつつ、そこに「~だけど」「わからん」式の砕けたる表現を巧みに織り込む。更に「~ました」「~ですね」の如き丁寧体を稀ながら用ゐること、スパイスの如くして極めて効果的に響けり。

 また丸谷才一 エッセイにて「~だ」「~である」式を一応の基調としつつも「~でせう」「~ぢやないか」の如き語法を随所に織り込みて親しみある雰囲気とリズムとを作りたることも印象深き也。

 さて かやうなる硬軟の織り交ぜを、文語文にても成し得るや否や。

 まづ丁寧体は、選択肢としては「侍り」または「候ふ」によるならんが、「侍り」は古式に過ぎて用ゐ難し、勢ひ「候ふ」の使用と相成らんが、これはこれで、いはば「色」の付き過ぎたる語にして自然には使ひ難きかと思はる。ただ、ナンシー関が丁寧体を用ゐしが如く低頻度にて織り込む分には可ならんかとも思はる。実験致したく候。

 また、「~であるが」と「~だけど」との如き、硬軟の使ひ分けにつきては如何にせまし。文体的色合ひを付する方法としては、例へば和文調(~せさせ給へど、~まほし、の類)と漢文訓読調(いづくんぞ~べけんや、いはんや~をや、の類)の採り入れなど考へらる。前者は流麗優美・後者は荘重堂々の雰囲気を出だすに役立つべし。されど、硬軟の対比には寄与せざらん。何となれば、今の世に在りては和文調・訓読調、いづれも硬と感ずべくも軟とは感じ難ければ也。

 いま按ずるに、むしろ文法的以外の語彙によりて"軟"を表出すべきには非ずや。例へば台所・厨房と言ひ得べきところを敢へてキッチンと言ふが如き選択なり。またテレビゲームと言はば済むところをわざわざ任天堂スイッチと言ふが如き選択なり。

 文語文自体 現今の社会において明らかに"硬"に振り切ったる言語表現なる以上、硬軟のバランスは主として"軟の表出"に意を用ゐるべきかと思はる(さは言へ、「~と言はざる可からず」の如きゴテゴテしたる表現を放り込むもまた文語文の楽しみの一つなり)。

 

 

セブン-イレブンの牛肉コロッケを讃す

 吾人、小学生のころ買ひ食ひを好みたり。学校の帰りに通学路を少し外れて模型屋に入るも、月々数百円の小遣ひにては何を購ふことも能はず。ただひたすら物欲しげにガンプラミニ四駆やの箱絵を眺むるのみ。やがて店を出でて、隣にある肉屋にてコロッケを一つ購ふ也。確か六〇円なりきと記憶す。無論その六〇円だに持たざる時も多ければ、コロッケの買ひ食ひは当時の吾人の贅沢なりき。その肉屋のコロッケは、大きさは比較的小型に属すと雖も、俵形とまでは言はぬまでも厚みありて、中身にも密度を感じたりき。また衣は厚く、歯を当つる感触をも楽しみたり。

 

 さて吾人 買ひ食ひを好むことはその後も続きて、今では退勤の際 時折近所のコンビニに入りて言はゆるホットスナックを購ふを悪しき習慣とせり。色々のスナックを試し来たれるが、近時のマイブーム、コロッケ也。

 ここでやうやく本題に入れるが、諸賢は知り給ふや、セブン-イレブンにて販売せる「北海道男爵の牛肉コロッケ」八八円(税抜)が驚くべき高品質を誇れることを。

 大きさは前述の肉屋の如くやや小ぶりなれど、厚みは充分にあり。まづ注目せらるるは衣なり。周知の如くコンビニのホットスナックは既に調理せられて什器に陳列せられたるものを購入するなれば、アツアツの状態にて消費することを得るとは限らず、否むしろ殆どの場合には熱のいささか引きたる状態にて口に入るることとなれり。されどこの牛肉コロッケの衣は、そのやうなる状態にありても其の粒立ち明朗にして快活なり。吾人まづこの点に驚けり。

 また、中身も頗る良し。じゃが芋は完全なるペースト状にはあらで、形をやや残して食感に寄与せり。且つ具の密度は充分にして、味はひも立派なり。加へて、希望せばソースさへ呉るれば――吾人は(買ひ食ひなれば)普段は貰はざるも――これによりて味を変ふることも亦可也。「至れり尽くせり」とはまさにこの「北海道男爵の牛肉コロッケ」のための言葉なるべし。

 このやうに堂々たる仕様にして、値段僅か八八円(税抜)とは、これ豈に驚嘆せざるべけんや。昔ザ・ビートルズは「愛は銭もて購ふべからず(Money can't buy me love)」と歌ひけるが、愛は買はれねど束の間の幸福は八八円(税抜)にて手に入るるを得。その幸福は楕円形をしたる也。

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幸福の形

 

 

欲しけれどもなかなか買はれぬ物

 欲しけれどもなかなか買はれぬ物――吾人にとりては腕時計これに該当す。

 腕時計、之を趣味とする人は当然何本何十本と所有し給ふらし、しかるに吾人にはその度胸無し。なんとなれば、既に我が右腕には一本の腕時計(CASIO F-91W-1、当時868円)の巻かれたれば也。

 既に一本の腕時計を所有し、且つ全く以て申し分なき働きをし居る以上、これに加へて新たなる一本を購はんとすることに吾人は無視すべからざる心理的抵抗感を覚ゆ。これは言はば、時計を道具と見居るが故也。

 翻って、ここに別の見方有り。

 すなわち腕時計をファッションの一項目(アイテム)と見る見方、是也。例へば複数のジャケットやネクタイを使ひ分くるが如し――尤も、吾人は普段ジャケットも着ずネクタイも締めざるが――と考ふれば、腕時計を複数所有することも全く不合理に非ざる也(若しくは、複数のジャケットやネクタイを使ひ分くるは不合理也。これもまた有力の説なるべし)。

 さは言へど、ジャケットやネクタイと腕時計とは相異なれり。すはなち前者は衣類也、後者は機械也。衣類は同種の物を複数所有すること自然なれど、機械はさに非ず。携帯電話もタブレットデジタルカメラもビデオデッキも、吾人各々一つを所有せるのみ。如何に日々身に伴ふものとて、時計をその例外とせんとの決心に至ることは是 難し。

 されば、様々の要素重なりてこの決心に至れる場合においてのみ、やうやく吾人新たなる腕時計を購入することを得。「様々の要素」としては、例へば次の如きもの有り。

 

(1)希求:そもそも欲しからずんば新たなるものを購ふ必要なし。

(2)希求の正当化:例へば、現在使用せるものの故障 乃至 紛失。これ起こらば比較的躊躇なく新たなるものの購入に至る。その他、「いま欲しきこの○○は既に所有せる××とは異なれり」と自己 乃至 他者を説得するに足る理由(例:より多機能なり、より高性能なり、より簡便なり)。

(3)適切なる機会:例へば誕生日、クリスマスなど。家族より「何を欲するや」と問はれて「何も欲せず」と答ふるは印象悪かるべし。

 

 さて、かやうなる諸要素の複合的に生じたる(または生ぜしめたる)結果として、吾人ここに目出度くGショックを入手する運びとなれり。まづはサンタクロースに感謝すべし。

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満足

 

 

正月の正しき過し方(2)

 この話の続き也。

 

 さてかやうなる理屈を立てて、吾人は実際にはこの正月休みをいかに過せしか。前稿にて述べたる要点は、(1)成したしと積極的に思ふことに注力すべし、(2)”漫然”を低程度に抑ふべし、の二点なり。

 吾人、まづ(2)を確保せんがため、これにとりての一大障害なるインターネットの使用を戒めつ。具体的には、大晦日・元日の二日間は原則としてネットに触れざりき。また正月二日以降も、積極的にネット見たしと思へる時以外は見ぬやうに努めたり。これによりて、"漫然" を著しく節減することを得。(2)は大いに成功したりと言ふべし。

 続いて(1)なるが、まづ旧年の暮れに「正月に読む/観るべし」とて買ひ置きたるコミック(島本和彦『新 吼えろペン』全11巻)とDVD(玉置浩二『We Can Believe in Our “JUNK LAND”』)と有りければ、これを賞味しつ。またナンシー関のエッセイや発作的座談会(椎名誠沢野ひとし木村晋介目黒考二)など読みて楽しみつ。この他、長めの散歩を二度成す、『リングフィット アドベンチャー』にて運動す、などのこと有り。積極的行動を重視したればにや、テレビを見る時間は例年より随分減りたるやうなり。

 但し(1)につきては反省点も有り。より正月の特別感を演出する工夫あるべかりけん。例へば、上のやうに色々の本を言はばつまみ食ひ的に読みたる結果、普段の読書とあまり変はり映えせざる様となりき。むしろ一点豪華主義とすべかりきかと思はる(かと言ひて、一つにこだはるも却って義務的の感 生ぜんか。難しき問題なり)。また、散歩も思ひつきのものなれば只の散歩なりき。双眼鏡を持ちいだして鳥見を兼ぬる等の工夫あらましかば一層良からまし。計画性の不足悔やまるるなり。

 さは言へ、概して言はば事前の方針を反映して良き過し方なりきと思ふ。ただ惜しむらくは、暦の都合にて新年の休日としては三日のみなりしことなり。いま二日、否いま一日あらば、「今や とく仕事にかかりたし」と感ずるほどに休日を堪能しつらんと思ふ。その点いささか残念なりとす。

 今回試みたる基本方針を保持し、且つこれらの反省を活かして、一年後には一層正しき正月の実現に努むる所存なり。

 

 

幸福なる日

 吾人、二年半前より大阪府T市に暮らし居るが、自宅の近所に一頭の犬を飼ひたる家有り。通勤の度その家の前を通る。

 朝の通勤時には姿見えざるが、夕の退勤時には、主人を待ちたるか、門扉の後ろに居ること多し。大型犬に属す。イングリッシュシープドッグの雰囲気 少しくありと雖も毛量さまで多からず細身に見ゆ、雑種なるべし。右目は白く濁りて、老犬ならんと思はる。

 吾人 犬を大いに好みたれば折々は彼に近づきたることありしも、互ひの目 合へば吠えらるること常なり。さればやや距離を取りて様子を楽しむことを習慣としたりき。

 

 さて今朝、仕事始めとて重き足をひきずりひきずり駅に向かひ歩みたれば、普段と異なりたる点有り。件の犬、門を出でて座りたるなり。主人 家のまはりを掃除したる間、さやうにして待ちたるなるべし。

 吾人、やや覚悟をきめて犬の前にかがみ、おづおづと手を差しいだせり。犬、吠えもせずまた逃げもせず。吾人がぎこちなく撫づるに任せたり。吾人いささか驚きつつも撫で撫でを楽しみつ。外飼ひなればにや、密なる毛並みには色々の塵埃絡まりて、撫づる我が両手を汚したれど、毫も気にかからず。

 おほよそ満足したりて、さて通勤を再開すべしと、撫でたる手を引きつ。されば、あに図らんや! 彼の犬、前脚を伸ばして我が腕を引きとどめ、撫で撫での継続を催促せり。

 なんぞ応へざるべけんや。かくして、撫で撫で→腕を引く→前脚にてそれを留む、を数回繰り返したり。

 

 やがて主人 掃除を終へて家内に戻らんとせしかば、犬それに反応して吾人の元をつと離れつ。主人 犬の名を吾人に教へ呉れ、吾人 礼を言ひて再び駅へと歩みいだせり。かくして幸福なる時間は終はりを告げたり。

 

 駅の厠へ入りて手を洗ひつ。手指の汚れは落つとも心中には老犬の姿と感触とありありと残りたり。幸福なる時間ははや終はりつれど、今日は依然として幸福なる日にあり続けたるなり。

 

 

正月の正しき過し方(1)

 毎年毎年、正月休みをいかに過すが正解なりやと心悩ませつつ、結局釈然とせざる気持ちを抱きつつ仕事始めを迎ふる、常の例なり。

 思ひ返せば、幼時においては正月の過し方は至って明確なりき。年頭に獲得したるお年玉を(親の許す限り)使ひに使ひて玩具なり何なりを我が物とし、学校の始まるまでそれらを堪能しつくすのみ。

 他方 大人はさにあらず、何かにつけて悩むこと多し。まづ「成すべきこと」と「成したきこと」とのバランスの検討を要す。休みの内に少しなりとも仕事に着手したらば、休み明けの業務円滑ならんとす。さは言へ仕事に多くの時間を費やさば休みたる気持ち減衰す。これはこれにて、休み明けの業務にそこはかとなく(または如実に)影響すべし。

 また正月と言へばテレビなるが、之にしても、撮り溜めたる番組を消化すべしや(=成すべきこと)、或いは現今放送したる番組を見るべしや。録画の消化に終始せばいささか義務的の感あり、かたや流れ来る番組をその都度見るに終始せば受動的に過ぎて、充実感少なし。

 さればいかにせましや!

 吾人しばらく考へて、簡単なる答を得つ。子供に倣ふ、是なり。

 大人もまた子供と同じき行動原理に基づきて正月休みを過ごすべし。則ち、ひとへに「成したきこと」に注力すべし。「成すべきこと」など、平常時にせよかし。「休み中に仕事の準備をし置かざること」と「休みを休みとして享受せざること」とにては、定めて後者の方が後悔大きかるべければなり。

 さて「成したきこと」に注力せん際の要点は、まづ「成したきこと」を具体的に認識することなり。子供にとりては、成したきことは明々白々(お年玉にて購ひたるものにて心ゆくまで遊ぶ)なるが、お年玉なき我々にとりては、「正月休みに成したきこと」の明確ならざる場合 大いに有り。さる故、休みに臨みて「成したきこと」を意識し確認せざれば、満足感得らるる休日は実現し難し。

 また、積極性を敢へて排して漫然と過すことも休日を味はふ一方法たりとは雖も、この割合多くしてはまた満足感乏し。例へばツイッター2chまとめサイトの如きは一単位あたりの言語量小さければ、興趣を覚えたるには非ざるにもかかはらず止め時を失ひて延々と閲覧を続けやがて虚しさに苛まるること、吾人度々あり。悪しき漫然の典型例と言ふべし。されば、これらのメディアの閲覧も「見たし」と積極的に感ずる時のみに留むる理性を持つが良し。"漫然"は低程度にキープしつつ、成したしと積極的に思ふことに主たる時間を割くこと、正しき休日のために肝要なるべし。

 以上を要するに、「成すべきこと」にはこの際 目を瞑りて「成したきこと」に注力すること、またそれに先立ちて、自身の成したきことを具体的に見定むること。これ大人が正しき正月休みを過す要点なりとす。

 ところで、「成したきこと」の見つからざる場合にはいかにすべきか。その場合には、休日を用ゐて自らの成したきことを思案探求するが良かるべし。

 

 

ガキの遣ひにはあらぬぞかし

 吾人 軽佻浮薄を以て任ずる者なれば、大晦日の晩に見るテレビ番組は例年『ダウンタウンガキの使いやあらへんで! 絶対に笑ってはいけない○○○』是一択なり。この年末も同様なりき。

 流石に最初より最後まで見たるには非ず、また『紅白歌合戦』に贔屓の歌手の全然出ざるにも非ざれば折々はそちらにチャンネルを合はせもしけれど、主には『ガキ使』を見たりしに相違なし。

 マンネリ化を指摘せられて既に久しき番組なれど、今回は概して言はば楽しみたり。例へば初めの辺りにて「華丸・大吉」(芸人に非ず)が跳ね回りしシーンには腹を抱へて笑ひたり。また例年、いはゆる大物芸能人を出演せしむるシーンは面白くなき印象あれど、松平健のくだりなどは充分笑ふことを得たり。

 無論、個別に見ば退屈なるシーンも少なくなかりしかど、さやうなるシーンはそもそも真面目に見ざりしかば(読書なり何なりに移行す)、さしたる問題には非ざりき。

 よりて概ね満足なりと言ふべくも、ただし思ふところ無きにしも非ず。本シリーズの基本システムたる「笑ひたる者の尻をその都度 棒にて叩く」(文字化するに、つくづく酷きシステムぞ)のことなり。

 吾人 低俗の人間なればこのくだりにて笑ひ居ること再三ならざることは認めざるを得ざれど、ただ、面白さより痛ましさの勝りたりこともまた確かなり。田中へのタイキック、方正への蝶野のビンタなど、すっかり恒例になりたるが、残すべき価値ありとは思はれず。ただ気の毒に思ふのみ(否 即座に撤回す、恥をしのびて白状せば、方正へのビンタはやはり笑ひを禁じ得ざる吾人なり。しかし気の毒には違ひなし、継続を希望せる者に非ず)。

 されば、ありきたりなる進言かも知れざれど、「笑ふ度に叩く」は廃止し、その代はり、時間内に笑ひたる通算回数の最も多き者に罰ゲームを下すルールへと改むべしと思ふ。

 尤も、更に言はば「そもそも『笑ふべからず』『笑はば罰す』なるルール必要なりや」といふ疑問も生じ得べきなるも、そこを考へ始めば話が余りに広がりぬべければ、留めつ。今ただ「現状のルールは痛ましさ勝りて笑ひに繋がり居らず」といふ点をのみ注視せば、上記の通算回数制を用ゐば以て足るべしと主張す。

 

 

人吉よりの贈り物

 新年早々、吾人宛てに一つの封書届けり。送り主は人吉市役所とあり。

 開けてみるに、今年のカレンダー也。人吉の色々なる場所の写真を配せり。

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 昨年、コロナ禍のため国が送りたる給付金の大方を、吾人は七月に生じたる二つの災害への義捐金に充てつ。一つ、モーリシャスにおける重油の流出事故、今一つ、熊本県を中心とする豪雨被害なり。

 

 吾人は熊本県に縁故なき者なれど、また吾人 旅行を趣味とする者にあらざれど、人吉は兼ねてより訪れたく思ひたるところ也。その理由は単純且ついささか奇妙にして、ひとへに「雉馬」の故也。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/雉子車

 雉馬(雉車とも言ふ)は雉と馬とを混じたるが如き姿の民芸品なり。この雉馬、吾人の幼時、祖母の家の玄関に飾られ居り。吾人これに愛着を覚ゆ。されど祖母の家すでに無く、その雉馬もいづことも知れず失せぬ。改めてこれを手に入れんこと、兼ねてよりの吾人の希望なり。

 人吉、この雉車の名産地と聞く。祖母宅の玄関に飾られたりきは勿論数センチの小さき玩具なりしかど、人吉には人の大きさほどなる物も置かれたりと聞く(上掲カレンダーの二つ目の写真右下を見られよ)。いつか彼の地を訪れて、これらの大なる雉車によりて目を楽しましめ、併せて自宅に飾らん小なる雉車を購ふべしと思ひたりき。

 さやうなる思ひはあれど実行には移さず居りたる所に、コロナ禍、更に豪雨被害と、訪るること容易に叶はぬ状況となりき。されば、いつ訪るるを得んとは知られねど、ともかくも早期の復興を願ひて吾人の給付金の一部を充てつる也。

 と言ふわけにて、このカレンダーは微志に対する返礼品なるべし。

 

 寄付のために却りて手間を取らするは心苦しきことなれど、人吉の様子を写真にして知らせ呉れたるこのカレンダーは、復興を願ふ者にとりて大いに快き贈り物なり。実際に訪問することを得る日までは、之に依りて彼の地に思ひを馳すべし。

 

 

2020年の "当たり" 買ひ物 3選

#買って良かった2020

 

第3位 G-SHOCK(DW-5600WM-5JF)

 吾人これまで腕時計はアナログ派なりしが、数年前仕事にて海外へ続けて行く機会ありて、紛失すとも惜しからざるものをと思ひていはゆるチープカシオのデジタル時計を購ひけるに、なかなかに気に入りたり。また先日たまたま好みに合ふデザインのものを見付けたるによりて新たに購ひたるが、このDW-5600WM-5JFなる品名(記憶せるには非ず)のGショックなり。

 アースカラーと称して、地層をイメージしたる色合ひなり。これ意外に色々の服に合ひたるやうに思はれて、いよいよ気に入りたり。

 腕時計としての機能はチープカシオ充分に果たせりとは思へど、このGショックを付けてみれば、まづ視認性の良きことに驚けり。この点、チープカシオのみならずアナログ時計と比べても利するところありと思ふ。また暗所用の文字盤の発光も明瞭なり(チープカシオは発光ごく部分的にして、相違大なり)。

 腕時計につきては本格的にアナログ派を離れてGショック派に宗旨替へせられんかとまで思はしめたる一品なり。


第2位 JBL FLIP 5

 吾人自宅にては主にノートPCより音楽を流せり。コロナ禍のため在宅勤務中心となりたれば、自宅のオーディオ環境を向上せさせんと思ひて購入したるBluetoothスピーカー是なり。

 モノラル・スピーカーなれば広がりを求むる音楽には不向きならんが、そのぶん音の塊を感ぜしむるか、吾人の普段聴きたるロックやポップスをば概ね満足せらるる音質にて鳴らせり。また彼のJBLだけありてジャズを流したればウッドベースを良く感ぜしむ。

 加へて、Bluetooth則ち無線なれば、音楽を止めずして家の中を自由に持ち歩くことを得。仕事の場所を変ふともBGMはそのまま傍らに有りといふわけにて、是は実に便利なり。先日の大掃除にても大いに活躍せり。デザインも良し。


第1位 リングフィット アドベンチャー

 堂々一位。これもコロナ禍に関はりたり。通勤なくなりてただでさへ不足したる運動量のいよいよ減少せるをフォローせんがためにプレイし始めつ。結果的に、これはここ数年にて一番の"当たり"買ひ物なりき。

リングフィット アドベンチャー -Switch

リングフィット アドベンチャー -Switch

  • 発売日: 2019/10/18
  • メディア: Video Game
 

 ゲームとして楽しくフィットネスせしむる工夫に富みたれば、高校卒業以来途絶したる運動の習慣を之によりて再獲得したり。またそれは、それ単体として我が身体の健康に寄与したらんのみならず、我が精神衛生上にも明確に良き影響あり。コンピュータに一日中向かひたるとかく鬱屈しがちなる生活において、コンピュータより離れてリングフィット アドベンチャーの運動に興ずるは恰好のリフレッシュとなれれば也。同様の生活をしたる人々に推薦す。


 偶然ながら3点とも1万円前後の価格なりき。

 なほ"当たり"の買ひ物ある以上、"はづれ"の買ひ物もまたあるが世の条理なるが、それにつきては思ひ出すだに腹立たしければ、敢へて述べず。