文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

古文学習のdisadvantage(2)

 英語等に比して古文学習の有するいま一つのdisadvantageは、その教材にあり。

 中学や高校の授業に用ゐられたるリーダーを想起せられよ。それらの文章は、中には既存の文章を転用したるものもあるにはせよ、その大方は学習用に新たにあつらへられたる文章なりたるべし。またその内容は、エッセイや新聞記事に類する如きの、平易なる表現と構造とを有する文章が主なりたるべし。

 かたや、古文学習における教材は如何。

 そこには「学習用に新たにあつらへられたる文章」の絶無なることは言ふまでもなし。すべて、既存の文章の転用なり。

 しかるにその転用せられたる文章はいかなる性質のものなりや? たとへば古今和歌集、たとへば源氏物語――それらは、その時代の最高峰とも、または日本文学史を通じての最高峰とさへ称せらるる文芸的文章なり。当時の文化的エリートを想定して書かれたるものにして、当然、極めて高度の語彙と表現と構造とを有するものなれば、初学者、否、中級者の教材としても適当とは見なし難きものなること、言を俟たず。

 これこそ古文学習の大いなるdisadvantageなれ。

 

 前項にて論じたることと総合せば、外語としての古文学習のdisadvantageは、次の2点に在り。

(1)内容の甚だ旧にして、文章理解において手持ちの常識を利用せられぬ点

(2)文章の甚だ高級にして、平易ならざる点

 

 しかるに、かやうなる点は古文の根本的特徴にして不可避のものなるかと言ふに、さにあらず。そのことは、実はこのブログ自体が証明したることなり。すなはち、文語文は近代以後にも書き連ねられたるものにして、またその内容も文芸的のものに限らず。否むしろ、文語文の歴史全体を見渡したれば、むしろ非文芸的の内容と表現とを持ちたるものの方こそ圧倒的に多数派なれ。

 このことは、たとへば明治43年に出版せられたる柳田国男遠野物語』に収むる次の文章を読みたれば一目瞭然たるべし。

 松崎村に天狗森と云ふ山あり。其の麓なる桑畠にて村の若者何某と云ふ者、働きて居たりしに、頻に睡くなりたれば、暫く畠の畔(くろ)に腰掛けて居眠せんとせしに、極めて大なる男の顔は真赤なるが出で来れり。若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面(つら)(にく)く思ひ、思はず立上りて「お前はどこから来たか」と問ふに、何の答もせざれば、「一つ突き飛ばしてやらん」と思ひ、力自慢のまま飛びかかり「手を掛けたり」と思ふや否や、却りて自分の方が飛ばされて気を失ひたり。夕方に正気づきて見れば無論その大男は居らず。家に帰りて後、人に此の事を話したり。

 其の秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳きて萩を苅りに行き、さて帰らんとする頃になりて此の男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死して居たりと云ふ。

 今より二三十年前のことにて、此の時の事をよく知れる老人も今に存在せり。天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり。(第90条)

 

 しかれば、現状の古文学習の有したるdiadvantageを解消せんがためには、かやうなる(1)近代以降に著はされたる(2)実務的ないし通俗的なる文章を教材とするに如くはなし。是非お試しあれかし。