文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

はしがき

  文語文にてエッセイ的の物を書いてみんとす。

 あくまで文語文にして、古文に非ず。則ちいはゆる古典文学作品の様態を真似せんとの志に非ずして、ただ文語文法を用ゐて現代の生活なり何なりを書き記してみんと思ひ至りし也。言はばそのコントラストが文章に興趣を与ふることを期待する訳也。そのため努めて卑近なるトピックを取り上げんとする気持ちまた無きにしも非ず。

 さて文語文は口語文中の文法的要素をただ機械的に置き換ふ(例:である→なり)のみに非ずして、寧ろ文章全体の構造骨格の見直しを要請す。則ち練習を要す。書き進むる内に語彙なり文法なりに変化の生ずることも当然予期せらるる訳也。


 只いづれにせよ継続せられでは話に成らぬ物也。

 

 

あばたもゑくぼ

 去年の暮れに腕時計を新調せしことは以前の記事にも記せるがごとし。Gショック DW-5600、普段使ひのものとしては吾人にとりて初のデジタル腕時計なり。

 その前に使ひたるものはオリエントの自動巻きのものにして、針の進み若干速かりければ、2週間に1度ほどのペースにて時刻の修正を要せり。その更に前に使ひたる電池式の腕時計はほとんど時刻の修正を要せざりければ、吾人これをいささか不便に思ひたり。

 しかるに今回は電池式しかもデジタルのGショックなれば、もはや電池の切るるまでは再修正は不要なるべし、と思ひきや、1ヶ月当たり2~3秒狂ふことに気付けり。些細なるズレとはいへども、重ならば見過ごしがたきズレにならんことなれば、月初めにその数秒を修正すること、吾人の新たなるルーチンとなれり。

 いはば月に1度、腕時計の面倒を見やることになりたれど、かやうに若干の手間を掛くることも、また かの腕時計への愛着を深むる一要因となりたるやうにも思はる。

 しかれどこれは、吾人かれを大いに気にいりたりといふこと前提にあればなるべし。もしニュートラルなる視点にてこのことを見ば、「余計なる手間を掛けしむる奴ぞ」と鬱陶しく感ずるに相違なからん。いはばアバタもヱクボといふやつなるが、これもまた物を所有することの一つの楽しみなりと言ふも可ならんか。

 

 

シン・エヴァ目撃せり

[注意] 本稿は映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』につきてのものにして、いはゆるネタバレを含めり。

 

 映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を近所の映画館にて鑑賞す。ネタバレを避けんがために公開初日の鑑賞とせり。平日といふこともありてか、チケットは問題なく購ふことを得。

 一言にて言はば、興奮措く能はざる、格別の映像体験なりき。

 2時間半といふ長尺の作品とて、吾人 厠の不安大きければ通路側に席を取りたれども(少なくとも2度は退席することを覚悟せり)、幸運の故か作品に集中したる故か、1度も退席する必要をおぼえざりき。

 さて、本作につきて特筆すべきことは煎じ詰めたらばただひとつ、「投げっぱなしにせずしてシッカリと終はらせつ」といふことなり。広告にありし「さやうなら、すべてのエヴァンゲリオン」とは、つゆ偽りにはあらざるなり。

 新劇場版は、「序」のころより「今回は大団円にす」と公言せりとは記憶したるものの、まさかそれを本当に実現せしむとは! しかもエヴァらしさを損なはずして、と、大いに驚嘆せられき。

 全体的に見ても本作は、娯楽性を大いに備へつつもエヴァとして違和感なく、ファンにとりても未体験ながら拒否感を催さざる、いはばあらまほしき新作にして完結作なりと思はる。

 

 吾人いま言ひたきことは、おほむね以上なり。とりあへず近々また見に行かんとす。 

 

 以下、こまごまとしたること。

・目覚めたるシンジに語りかくるトウジを筆頭に、「村」のシーンは人々の優しさに満ちをり、あの殺伐としたる『Q』の雰囲気より救はれたるがごとくおぼえて、吾人の涙腺をいささか刺激せり。

・「そっくりさん」の腕カバーのシーンは劇場にてもウケたりき。

・佳境の、シンジがミサトに「リョウジ」の話をしたるシーンには思はず感涙せり。シンジの成長を示すものにもありて、本作の最重要シーンの一つかとも思はる。

・ゲンドウが物語より「下車」するくだりも見事なりき。求め続けたる亡妻のすがたを、彼が背を向け続けたる息子の中に見出せるあっけなさよ。

・またこのシーンにつきては、「父と子の対話」おこなはれたるなるが、その前にケンスケがシンジに「父と話をすべし」と勧むるシーンありて、「なんと非現実的な」と(観客もその場に居たるアスカも)思ひたるも、それが終盤に実現してクライマックスに向かへるも大なる驚きなりき。

・まったくの余談ながら、終劇後に拍手したるは、吾人といま一人ほどなりき。吾人は面白き映画を見たる後は拍手したしと思ふも、なかなか勇気いでずして実行すること少なし。今回も拍手する人はほとんどなし。なにとなく寂しく思はるるも、映画のマナーにつきては個々人の考への相違大きければ、深追ひはすまじ。

 

 

正しき恨み方(2)

 前稿の続き。

 「文法上許容スベキ事項」は全16項目より成る。全文はインターネットにて閲覧可能なれば*1、ここにてはその中より幾つかを取り上げて見んとす。

 まづ、前稿にて取り上げたる「恨む」については第1項にて下記のごとく説明あり。

一、「居リ」「恨ム」「死ヌ」ヲ四段活用ノ動詞トシテ用ヰルモ妨ナシ

 遡りては「居り」はラ行変格活用、「恨む」は上二段活用、「死ぬ」はナ行変格活用なるも、現代語より類推せらるるは四段活用なれば、これを "許容" すとの趣旨なり。

三、過去ノ助動詞ノ「キ」ノ連体言ノ「シ」ヲ終止言ニ用ヰルモ妨ナシ

 例 火災ハ二時間ノ長キニ亘リテ鎮火セザリ

 過去をあらはす「し」は現代にても古めかしさを出さんとする場合によく用ゐらるるものなるが、上の説明にあるごとくその終止形は「き」なり(×:鎮火せざり ○:せざり)。しかれど(「し」とは子音の異なれる故か)これはあまり用ゐられず、終止形にあたるところにも「し」を用ゐること多し。以て許容とせり。

十一、てにをはノ「トモ」ノ動詞、使役ノ助動詞、及、受身ノ助動詞ノ連体言ニ連続スル習慣アルモノハ之ニ従フモ妨ナシ

 例 数百年ヲ経ルトモ

   如何ニ批評セラルルトモ

   強ヒテ之ヲ遵奉セシムルトモ

 

十二、てにをはノ「ト」ノ動詞、使役ノ助動詞、受身ノ助動詞、及、時ノ助動詞ノ連体言ニ連続スル習慣アルモノハ之ニ従フモ妨ナシ

 例 月出ヅルト見エテ嘲弄セラルヽト思ヒテ

   終日業務ヲ取扱ハシムルトイフ

   万人皆其徳ヲ称ヘケルトゾ

 第11項はいはゆる逆接仮定を示す「とも」、第12項は引用を示す「と」につきてなり。これらは終止形に接続するものなれば、上掲例はそれぞれ「(ふ)とも」「批評せらるとも」等となるはずなり。しかれど終止形に接続する助詞すくなければ、これらも連体形に接続せさする例多きなり。

五、「ヽヽセサス」トイフベキ場合ニ「セ」ヲ略スル習慣アルモノハ之ニ従フモ妨ナシ 

 例 手習サス 周旋サス 売買サス

 「す・さす」(口語の「せる・させる」)は助動詞なれば動詞に接続す。口語にては「手習させる」「売買させる」のごとき表現まったく普通なれど、改めて見ば、これらは名詞に助動詞つづきたるものなり。されば「手習さす」「売買さす」のごときは、いはば口語に基づける文語法といふべし。

九、てにをはノ「ノ」ハ動詞、助動詞ノ連体言ヲ受ケテ名詞ニ連続スルモ妨ナシ

 例 花ヲ見ル

   学齢児童ヲ就学セシムル義務ヲ負フ

   市町村会ノ議決ニ依ル限リニアラズ

 かやうなる「の」の用法は口語には見られぬものなれば純粋なる文語法なるかと思ひきや、さにあらず。古くはなき語法なることは、つとに本居宣長の『古事記伝』にて指摘せられたり。漢文訓読の影響による語法と目せられ、近代文語文にても比較的いかめしき雰囲気の文章に好まるるもののごとし。

七、「得シム」トイフベキ場合ニ「得セシム」ト用ヰルモ妨ナシ

 例 最優等者ニノミ褒償ヲ得セシム

   上下貴賤ノ別ナク各其地位ニ安ンズルコトヲ得セシムベシ

 これも例多し。「得せしむ」の「せ(←す・さす)」と「しむ」とはいづれも使役をあらはすものなれば、2つ重ぬるは過剰なりとす。「得さす」乃至「得しむ」にて足れり。かやうに可能表現を重ぬるは他にも例ありて、口語にても「できうる限り」のごときあり。

 ところで「文法上許容スベキ事項」は「得せしむ」にのみ言及したれど、実際には「せしむ」といふ重複使役は「得(う)」以外の動詞にも続きうるは勿論なり。しかれば何故に「得せしむ」に限りて "許容" せりや、故を知らず。慣用表現として殊に頻用せられたるならんか。

 * * * * *

 以上、全16項より数項を拾ひいだせり。ここに "許容" せられたる数々の語法は、すでに大いに世におこなはれたれば最早 誤りと見なしがたしとて選ばれたるなるべし(当時 文語を書くことの一般的なりしことをよく示せり)。

 ところでその一方、同じく破格の例多く存しながら、この「文法上許容スベキ事項」に挙げられざる、すなはち "許容" せられざる語法もあり。その1つ、「仮定を示す『已然形+ば』」なり。

 平安時代までの言語資料を確認するに、モシ~ナラバといふ仮定条件は「未然形+ば」によりて示され(例:花さかば=花ガ咲イタラ)、他方「已然形+ば」は~ナノデといふ確定条件を示せり(例:花さけば=花ガ咲クノデ)*2。しかるに時代下りてこの「已然形+ば」も仮定条件に用ゐらるるやうになり、やがて「未然形+ば」を駆逐するにまでいたれり(口語文法にて「已然形」といはず「仮定形」といふは、この故なり)。以下に明治期の文語文より数例を挙ぐ。「もし」と共起したれば仮定の意味なること明らかなる例なり*3

(も)之ヲ爲セハ國民服セス

森有礼 訳「宗教」『明六雑誌』6、1874年)

 

其事若シ國家ノ安寧ニ害アレハ政府ハ自己ノ特權ヲ以テ嚴ニ之ヲ禁スル憲法ヲ示令スルヲ得可シ

加藤弘之 訳「米國政教(三)」『明六雑誌』13、1874年)

 

「ラプランド」人ノ中ニ於テハ若シ其族中病メルモノアレハ呪師ハ其前額ヲ吸ヒ其顏面ヲ吹ヒテ之ヲ治センヿ(こと)ヲ謀ル

(松下丈吉「未開の遺俗果て何れの所に滯在するや」『東洋学芸雑誌』5、1882年)

 さて、この語法の「文法上許容スベキ事項」に含まれざるは一体何故なりや。これにつきて、日本語学者の野村剛史は下記のごとき興味深き主張をしたり*4

しかしこの「已然形を仮定条件に使う」という現象は、かなり古く(鎌倉時代)から生じまた極めて一般的なので、当然「許容事項」として認めておかなければならないはずのものである。ところがこの点に触れると、不都合が生じる。「教育勅語」(明治二三発布)は次のように普通文で書かれている。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。「緩急アレハ」は已然形による仮定条件である(未然形は「緩急あらば」)。「已然形による仮定条件」を「許容」するとなると、「許容事項」は「教育勅語」を上から目線で「許容」することになる。しかし、「教育勅語」は「勅語」であって天皇のお言葉である。その勅語を「許容」などしてよいであろうか。許容事項に「已然形による仮定条件」が立項されていないのは、この点を考慮した可能性がある。冗談ではなく、「勅語を「許容」するのか」の如き揚げ足取りは、戦前の日本ではしばしば事柄の命取りになる可能性があった。

 つまりこの語法を "許容" に含まざるは、国家に恨まれざる、否、恨みられざるやうにとの忖度なりき、との説なりけり。

*1:http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/kyoyo.htm
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992701/2

*2:注、ただし「已然形+ば」の用法はいますこし広く、ここに後世の混同の由来ありとす。

*3:用例は「日本語歴史コーパス」により検索。

*4:野村剛史『日本語「標準形(スタンダード)の歴史:話し言葉・書き言葉・表記』(講談社、2019年)、111頁。ゴチックは引用者による。

 

ムッシュを悼む

 3月1日は "ムッシュ" こと かまやつひろしの命日なり(2017年逝去)。彼は吾人のもっとも敬愛するミュージシャンの一人にして、吾人にとりてのアイドル的存在なり。 

 吾人のもとに、ムッシュのサインあり。2014年のライブ後に「出待ち」して得たるものなり。もっとも出待ちといふにはいささか語弊ありて、その実態は、控へ室の向かひにたたずみて、その扉の開くたびにムッシュに熱き視線を送りたれば、かれ気をきかせてこちらに向かひくれしなり。嬉しといふも疎(おろ)かなり。

 されば持参したる自伝『ムッシュ!』(名著なり)にサインを請ひ、握手を請ひ、しばらく話をせり。その内容はほとんど記憶せざれど、柔(やは)き手の感触は今に忘れず。

 世を去りてはや数年を経れども、彼は残しおきたる作品とこの感触とを通して今日もまた吾人に歌ひかくるなり。

 


 

正しき恨み方(1)

 日本語のすべての動詞にはそれぞれ活用といふものあり。

 現代語の「する」といふ動詞を例にして言はば、「ない・て・するする時・すれば・しろ」と、かくのごとく文中の役割に応じて形を変ふるなり。

 一方 文語の文法(いはゆる古典文法)を見るに、口語(現代語)と同じ動詞なれども活用には相違あり。例へば上記の「する」の場合、古典文法にては「ず・て・する時・すれば・せよ」のごとく活用す。

 ただし、実際に文語文を読み書きする時にこれらの相違を動詞ごとにいちいち記憶する必要はなし。その故は、文語と口語とで、同じ動詞ならば活用のタイプも同一なるが原則なればなり。例へば「買ふ」といふ動詞は文語にても口語にても四(五)段活用なり。一般化して言はば、口語の五段活用動詞は文語にては原則として四段活用、上一段活用は少数の例外を除き上二段活用、下一段活用は全て下二段活用、といふ具合に対応するなり。

 されば、現代の口語からの類推によりて、古典文法の動詞は活用することを得。文法に異なりあるにもかかはらず活用を運用することの比較的容易なるは、いはば文語と口語とで背骨が共通したればなり。

 

 されども、この共通には例外も存す。その一つに「恨む」といふ語あり。

 口語においてはこの動詞は五段活用なれば、文語においてもそれに即して「恨まず・恨みて・恨む恨む時…」のやうに活用せさせんと考ふるが自然なり。しかるに、古典作品を見るにこの動詞は次のように活用せり*1

 世の道理を思ひ取りて恨みざりけり(源氏物語

  ・・・未然形の例

 ふる雪につもる年をばよそへつつ消えむ期もなき身をぞ恨むる蜻蛉日記

  ・・・連体形の例

 「何しに今宵ここに来つらむ」と恨むれば、(落窪物語

  ・・・已然形の例

 これらの例より、この「恨む」といふ動詞はかつて上二段に活用したりしこと明白なり。『日本国語大辞典』(第2版)によるに、現代語のごとき四段(→五段)活用の例の現るるは江戸時代まで下るやうなり。

 されば文語文においては、平安時代の語法に準拠すべしといふ考えにては「恨みず」のごとき上二段活用、より時代の下りたる語法にても良かるべしといふ考えにては「恨まず」のごとき四段活用、それぞれ標準とならん。

 さればいかにせましや?

 吾人のこのブログのごとき、言はばお遊びの文章ならば、別にいづれにても差し支へあるまじ。されどここに我々の想起すべき事柄あり。すなはち、例へば明治時代や大正時代には、この文語文 実用の書き言葉として広く用ゐられたりといふことなり。法律文に至りては、その口語化は戦後になりてのことなりき。よりて、上記の「恨む」のごとき事例につきて実務的なる観点より「いづれを用ゐるべきや」といふ問ひ生ずるわけなり。

 さてさて、これに答ふるがごとき形にて1905(明治38)年に文部省の告示したる文書あり。名づけて「文法上許容スベキ事項」なり。

 次稿にて、この「文法上許容スベキ事項」について少しく見てみんとす。(続く)

*1:底本は小学館・新編日本古典文学全集。国立国語研究所「日本語歴史コーパス」により検索。

 

会議中のB.G.M.

  前稿にてオンライン会議の特質をいろいろ述べ立てたるが、最近また新たなる特質を見出したり。それは、従来の会議と異なりてオンライン会議にては「BGM」を置くことの可能なる点なり。

 すなはち、パソコンに会議画面を表示しつつ音源を再生し、会議音声と音楽との音量を上手く塩梅せばBGM付きの会議となるなり。吾人 近ごろの会議にて時折これを活用することあり。

 されば、会議に最適のBGMは何なりやといふ問題生ずるは自然のことなり。長時間にわたり延々と続く会議ならば、フランク・ザッパの「拷問は果てしなく」(The Torture Never Stops)など相応しかるべし。


 他方、さやうなる自虐的方面にはあらで、会議の雰囲気を楽しからしむる選曲もまたあるべし。例へば、スコット・ジョプリンの「ジ・エンターテイナー」など流さば、従来興味を引かざる議題も俄かにあたかも愉快なるものの如くおぼゆるならんか。試みる価値あるべしと思はる。


 

 

『リングフィット アドベンチャー』を推す

 長年の運動不足の解消を目論みて始めし『リングフィット アドベンチャー』、結果的にここ数年にて最も良き買ひ物なりきと考ふ。

 運動不足の解消を目的とせりと雖も、もとよりさほど体調不良等を感じたるには非ず。ただ(コロナ禍もあり)運動量 殊に下がりたることは確かにして、それが長期的に健康に悪影響を及ぼさんこともまた容易に想像せらるれば、何らかの対策を求めたりしなり。「ラジオ体操を数回せば一日の運動量に満つ」とネットで読みし以降、しばし行ひたりしも、習慣として根付くには至らざりき。

 『リングフィット アドベンチャー』は自らの運動に応じて画面内のキャラクターが(吾人の投影として)動き、また各種の運動が敵への攻撃となる、いはば肉体直結式のロール・プレイング・ゲームなり。ここに楽しみありて、今に至るまで五ヶ月間継続するに至れり。すなはち運動の習慣を、高校卒業以来およそ十五年ぶりに奪回せりと言ふべし。

 今までも、運動の習慣を得んと試みることは幾度かありき。例へば大学院生の頃は(自宅に風呂の無かりしことも手伝ひて)大学内の屋内プールに通ひたり。されど長くは続かず。水泳は、他の運動に比ぶれば手軽なる運動と言い得るも(体操着や上履きは要らず、水着の類だに有らば足る)なほ習慣として根付かしむるにはハードル高かりし。少なくとも水着やタオル・シャンプー等の事前準備を要し、研究室とプールとを往復する必要あり。

 また腹筋運動や背筋運動、スクワットといふ類の筋力トレーニングを行ふこともあり。これらは自宅にて手軽に取り組むことを得るものなれど、それ自体の楽しみ薄く、同じく習慣とは成らざりしなり。また一回当たりの時間も短くなりがちなり。されば結果も出難し、されば意欲いよいよ衰退せるなり。

 翻りて『リングフィット アドベンチャー』は、運動に適したる服装に着替へ(吾人は上はTシャツ、下はユニクロにて購入せるステテコを之に宛がひたり)、ゲームを起動するとふ手間は有るには有れど、運動に至るハードルは概して非常に低しと言ふべし。またゲームの楽しみあること上述の通りなり。すなはち従来の吾人の挫折要因がクリアせられたる物なり。これに依りて、吾人めでたくも運動の習慣を獲得することを得たり。また習慣化せられたれば結果も出で来たり。良いサイクルに入ることを得るなり。

 のみならず、『リングフィット』には下記の如き思はぬ副産物さへあり。

1. 『リングフィット』をせざる日にも、それをカバーせんとて筋トレ(歯磨き中のスクワット等)を試みるやうになりたり。また『リングフィット』にはゲームを起動せずともリングのみにて簡易トレーニングをする「ながらモード」もあり(ポイントも溜まる仕様なるは心憎し)。

2. 仕事にはかばかしき進捗なき日にも、『リングフィット』をせば「よし、乃公は少なくとも今日運動はしつるなり」とて、いくばくかの自己肯定感を得らるるなり。

 さやうなるわけにて、特に吾人の如く日がな一日パソコンに向かひたる類の労働環境下にある人に之をお勧めしたし。

 ちなみに肝心の成果は如何と言はば、吾人の場合はダイエット目的には非ずして(むしろ体重の増加を希望す)、主に運動不足の解消及び体重・筋肉量の増加を期せり。しかるに、運動不足の解消は果たせりと信ず、また筋肉につきては、開始後1ヶ月ほどにて上半身のシルエットのやや(少々ながら確実に)変化せるを感ず。これまでに無きことにして、いささか感動す。

 ただしそこから伸び悩みたり。現在、吾人 身長約180センチ・体重約60キロにして、今1、2キロほど増量したき気持ちあり。されどこれは『リングフィット』よりは食事面の積極的対策を要するかと思はる。

 

 

手を洗ふ男

 吾人元来 臆病の気ありて、「鍵は閉めたりや」「コンロは消したりや」の類、しばしば気にかかりて、二度三度と確認することも珍しからず。

 この仕草に、昨年来のコロナ禍の為に一つ加はりたるものあり。「手は洗ひたりや」是なり。

 手洗ひ自体は、習慣としてすっかり定着せり。ただ問題は「充分なる手洗ひなりや否や」なり。

 「充分」とは――いかんせん相手はウイルスなれば、目視にて確認する能はず。聞くところに依れば、手指を石鹸にて10秒程度洗ひたる後に流水にて洗ひ流さば充分なるべしと。吾人手洗ひの際に殊更にテンカウントを為すにはあらねど、手のひら・各指・手の甲をそれぞれ数度づつ擦りたれば所定の秒数は満つべしと思ひてそのやうにしたり。その際には特に問題はなし。ただ、無意識にササっと洗ひを済ましたる後にフと「今の手洗ひは不充分には非ずや?」との不安に囚はるること、時折あり。石鹸は確かに付けつとは雖も10数秒の丁寧さを施したる記憶なし。されば、その場にて再び手を洗ふことと相成る。例へば駅のトイレにて、来たる電車を気に掛けつつ手を洗ひ直す様、我ながら滑稽なり。

 斯くの如き行為の理由を自己分析するに、COVID-19を恐るるが故なるは勿論なれど、より深層的には「果たすべきことを未だ果たさざる居心地悪さ」を解消せんとの心理に由来するなるべし。大袈裟に言はば一種の強迫観念なり。

 我ながら面倒なる性格なりとは思へども、但し吾人を勇気付くる男あり。

 その男は、過酷なる状況を幾度も生き抜きたる理由として、「我 臆病なればなり」と答へたりといふ。男の名はデューク東郷、人呼んでゴルゴ13なり。

 吾人が慎重に手を洗ひ直したる時、そこには彼の男の精神宿りたるなり。ゆめ背後に立つべからず。  

 

 

マグヌードルに待ち時間有り

 突然ながら諸賢は「マグヌードル」を食するとき、熱湯を注ぎてのち如何ほど待ち給ふや。吾人幼時よりマグヌードルを好みたれど、熱湯を注ぎつれば待ち時間を設くることなく箸にてしばらく掻き混ぜてのちそのまま食するを常とせり。

 ところが先日、湯の沸くを待ちがてら全く何気なく外装を見し時、そこに「熱湯を入れて2分待つべし」との文言を目にして驚愕せり。

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吃驚

 なんと2分とは! 普通のカップヌードルとさして変はらぬには非ずや。

 されど作り手の言ふことなればと、疑念は大いに抱きつつも試みに指示に従ひて2分待ち、のち食ひ始む。即ち認めたり。諸賢、マグヌードルは2分待つべし。

 これまで食せしに比べて、麺の質向上して食感豊かになれりと感ぜらる。待ちたる分いはば「伸びた」状態に成りたるなれば当然とは雖も、この状態こそマグヌードルの本来の姿なりけれと気付かるる也。

 是、例の「少しのことにも先達は有らましきことなり」なる警句を想起せしむる一事件なりき。

 以下余談。吾人按ずるに、マグヌードルの一番旨き時間帯は深夜なり、則ち夜食なり。啜り始むれば、少時ありて麺尽くと見ゆ。されどいぢましく汁を飲み続けたれば、やがてマグの底に思ひがけぬほど多くの麺の沈み残れるに出で会ふ。これ小確幸と言はざるべからず。

 

 

綾鷹を未だ許さず

 かつてナンシー関野島伸司の書くドラマを下記の如く批判せること有り。

野島伸司は、何の責任も取る積もり無き也。... 野島ドラマに欠かせずとせられたるものに「めくるめく過激」有り。... しかしてこれらの「過激」には全て保険 掛けられたり。のちほど誰よりも怒らるることの無きやうにとて也。*1

 さて、吾人もこの「保険の掛けられたる過激」を見て怒りしこと有り。相手はコカ・コーラ社の日本茶綾鷹」なり。

 話は5年ほど前、綾鷹のCMに大々的に使はれたるキャッチコピー有り。「日本人の味覚は、世界一繊細だと思ふ*2」、是なり。

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出典:https://www.catchcopy-gallery.com/beverage/ayataka-taste-of-japanese/

 吾人之を見て怒り心頭に発し、「綾鷹 二度とふたたび購ふまじ」と決意し且つ実行せり。

 吾人の癇に障れるは、「日本人の味覚は世界一繊細」といふ傲慢なる主張そのものには在らず。無論これとて好ましきものとは思はざるも、少なくともそれは一つの主張にして、またプロレス的挑発として鷹揚に受け取る余地もあり。このキャッチコピーを見て、各国の人々「否、我が国人の味覚こそ世界一繊細なれ!」と次々に声を上げたらば面白かるべし。

 しかるに、このコピーはここに「と思ふ」と付け加へたり。いはゆる「※個人の感想です。」の類なり。これ上記の「保険」に外ならず。これによりて、「日本人の味覚は世界一繊細」と、言ひたきことは言ひて他国の人を無根拠に貶めながら、「断定には非ず、感想に過ぎず」とて外部よりの反論を無効化したり。なほ且つ、「思ふ」の主語は明示せず。これ豈に悪辣ならずや、卑怯ならずや。吾人の怒りは正にこの点に在り。

 今は綾鷹のCMに彼のキャッチコピー使はれざるも、吾人未だに綾鷹を購ふことなし。幸ひにして茶には他に選択肢多ければ、さして困ずることもなきなり。  

 

*1:拙訳。原文は、「野島伸司って、何も責任取る気がないのである。(略)野島ドラマに欠かせないとされるのが「めくるめく過激」である。(略)これらの「過激」には全て保険がかけてあるのだ。あとで誰からも怒られないように。」(『何もそこまで』、1996年、第4章)。

*2:当然ながら原文は現代仮名遣ひなり。調和のため表記を改めつ。

 

『SMAP×SMAP』の思ひ出

 小学生の頃、我が家には「子供は夜9時半までに就寝すべし」なる規則有り。それ子供にとりて何を意味するかと言はば、「夜10時台のテレビ番組を見ること能はず」といふことを意味せり。

 しかるに当時――90年代後半のことなりき――午後10時台にいかなる番組の放送せられたるか? 吾人の記憶せるは只一つのみ、『SMAP×SMAP』これ也。月曜日の10時より放送せられたる1時間番組なりき。

 当時、我が家の子供がこの番組を見ることを許さるるは、夏休み等の長期休暇中か、普段と放送日を変へて祝日等に放送したる場合か、若しくは翌火曜日が祝日に当たれる場合のみなりき。当時はいはゆるハッピーマンデー制度の施行以前なれば、火曜日が祝日になるケース今より多かりきとは雖も、低頻度なることは確かなり。よって当時の吾人にとりて「火曜休み」は一種特別の意味を有したり。

 今にして思へば、何ゆゑに『SMAP×SMAP』をかやうに特別視せしか疑問に思はる。彼の6(→5)人組を殊に愛好せしには非ず(ただ、個々としてだに人気有りしメンバーの勢揃ひしたる様子に特別感を抱きたるかとも想像せらる)。また番組内の色々のコーナーを甚だ面白く感じたりとも考へ難し。されば、当時の大人気番組なりしことと、また何と言ひても「普段は見ることを得ず」といふ状況そのものが、吾人にとりての本番組の価値をして高からしめたりと考ふるが最も自然ならん。

 事実、中学生になりて就寝時間の規定がめでたくも撤廃させし後、特にこの番組を熱心に見たりといふ記憶なし。やはり番組そのものの魅力と言はんよりは、一種の特別感の作用なりけん。

 さはあれど、暦の巡り合はせに依りて午後10時に起きたることを許され、あのロート製薬のオープニングを見たる時の高揚感は今も記憶にあり。その意味において『SMAP×SMAP』は今以て吾人にとりて特別なる深夜番組と言ふべし。

 

 

 

山本夏彦『完本 文語文』を読み(終へざり)し事

 グーグルにて「文語文」と検索するに筆頭に挙がる一書が山本夏彦『完本 文語文』(文藝春秋、2000年)なり。本自体は以前より知りたるも読みたることはなかりしを、吾人が文を綴るにも参考にならんかと思ひて図書館にて借りたり。

 さて読み始めたるに、程なくして「これは吾人には合はざるな」と察せられぬ。文語文の称揚を基本的態度とせるやうなるが、吾人にとりては説得せられざるところ余りに多ければ也。一例を挙ぐれば斯くの如し。

 和漢の古典には文脈に混乱がない。混乱が生じたのは大正期の岩波用語の時代からである。それまでの文にはリズムがあったから暗誦にたえた。(11頁)

 「和漢の古典には文脈に混乱がない」とは、一体いかほどの「和漢の古典」を検討したる結果さやうなる断定に至りしかと疑念を差し挟まざるを得ず。あるいは寧ろ、著者が「文脈に混乱がない」と判断せるを以て「古典」と認定せるならんか。「それまでの文にはリズムがあった」といふも、書かれたるもの一般を指せるか、文芸に限って指せるか、はたまた文芸の中でも著者が「古典」と認定せるものに限って指せるか、不明なり。要するに「昔の歌は良かりき」なる述懐と同レベルの言説と吾人には思はる。

 また著者は次のやうにも述べたり。 

生活がないから真の文語ではない。(18頁)

むろん私は文語は書けないが、なぜ書けないかは知っている。生活がなくなったからである。それはキモノの生活がないのに似ている。(略)あるのは似てはいても違うものである。(17頁)

昭和二十年敗戦の日までカタカナまじりの文語は、陸海軍に残っていたが、それは口語で生れ口語で育ったものの文語だからむろん本物の妙趣はなかった。(22頁)

 かやうに著者は「真の文語」の存在を主張す、されば真ならざる文語もありとの意趣なるべし。それは「生活」なくして書かれたる文語にして、「似てはいても違うもの」なれば「本物の妙趣はな」きもの、と判定せらる。しかるに肝心の、著者がいかにして「真」なりや否やを実際の文章から判断したるかの根拠は示さるることなし。

    かやうなる類の、得心のゆかざる記述あまりに多ければ、20頁ほど読みたるところにて断念しつ。

 但し、面白く読みたるところも無きには非ず。例へば、谷崎潤一郎菊池寛が「弔辞」に文語文を用ゐることありし例示(41~43頁)は面白く思へり。また次の如き記述にも関心を持ちたり。

佐藤(引用者注、春夫)は自他の著書の序文や跋文に、また漢詩の翻訳に好んで文語を用いてその妙趣を伝えた。(21頁)

漱石の弟子はたくさんいるが、英文学を継いだ者はいても漢詩文の遺鉢(ママ)を継いだ者はいなかった。(15頁)

昭和三十八年から二十年あまり私は森銑三翁から毎月候文の手紙をもらった。(略)毎月私の雑誌を贈呈すると、そのつどこまごま批評してくれる、それが全文候文なのである。翁は候文最後の人だった。(26頁)

 

 

シュールは身近に在り

 風呂の湯に浸かりたる時などに、吾人ぢっと手を見つむること有り。生活苦のためには非ず。ただ手といふものを興味深く思へば也。

 日常の生活において余りに当り前に自然に駆使したれば気に掛からぬことなるが、この手といふものは実に奇妙なる器官なり。掌といふ一つの塊より数本の棒にょきにょきとまた整然と生え居りて、(関節の制限下に在りと雖も)吾人そのそれぞれを自在に動かすを得。象が鼻を実に器用に動かすを見て我々は驚けど、象は人間が指先を動かす器用さに驚くべからん。

 何気なく両手を並べ見るに、おほかた左右対称を成したることを認めて改めて面白がりなどもす。

 幼時、眠られぬ夜などに枕元の電灯によりて手の影を天井に映じて、色々に動かして楽しむこと有り。天井に映りたる手は、吾人の動きに応じたりと雖も、もはや独自に動き居れるが如く見ゆ。己れに備はれる器官なれど、否、己れに備はれればこそ、その滑らかなる動きに不気味さを覚ゆ。昔『アダムス・ファミリー』なる洋画に、手のみの化物ありしが、身近なるものも視点を変へて見ば恐ろしくも滑稽にも見ゆることを上手く表はしたりと思ふ。

   * * * * *

 かくの如く、身近なる物を先入観を捨てて清新なる気持ちにて見つめ直したる時に一種の超現実的なる印象を受くることあり。吾人そのやうなる経験を楽しく思ふ。

 月もまたその一例なりとす。

 吾人、夜空の月を見上げて驚嘆の念に打たるること有り。そのさま、巨大なる球体 空中にぽっかりと浮かびて静止せり、しかして人々はそのことを毫も気に掛けざるやうにして平然と歩きたり。是、まさしくシュールレアリスムの光景に外ならず。ルネ・マグリットの代表作の一つに、青空に浮かびたる巨石を描きたるもの有り(「ピレネーの城」)。あの絵の光景をシュールと言はば、何ぞこの夜空の月をシュールと言はざるべけんや。

 SF作家アーサー・C・クラークに、「充分に発達したる科学技術は魔法と見分くること能はず(Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic)」といふ有名なる格言あり。これに即して言はば、科学的知識の著しく欠落したる吾人にとりては大方の科学的現象は魔法と等しく見ゆる也。  

 

 

『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き』を見てカメラマンの忍耐に感謝す

 吾人、犬派・猫派で言はば明確なる犬派なり。然りと雖も猫をも大いに好みたり。殊に近年、猫へのシンパシイを増したるやうに思はる。

 吾人の好みたる猫の姿の一つに、その横顔あり。何かを熱心に見つむる猫の横顔は、真剣でありながら何故かそこに或る種の"をかしみ"が感得せらるる也。

 

 猫の写真家として高名なる岩合光昭の監督・撮影『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』を映画館にて鑑賞せり。


『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』特報60秒

 

 幸か不幸か(吾人にとりては幸、劇場にとりては不幸)席はガラガラなりしかば、三密のプレッシャーを感ずることなく鑑賞することを得たり。

 さて本作は、NHKにて放送せられたる『岩合光昭の世界ネコ歩き』なる番組の劇場版にして、内容的には映画ならではといふ感じはあまりせざるが、猫が活き活きと動きたるを見るに、大画面に越したることはなし。『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』といふタイトルもいささかとっ散らかりたる感あれど、上述の如くテレビ番組の劇場版なれば、これは『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』やら『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』やらと同じと思はば さしたる違和感もなし。

 

 舞台は北海道の牧場とミャンマーの湖上住居と也。この二地点を数往復する形で、双方の猫らの生活が一年にわたりフィルム上に繰り広げらるるなり。

 両編とも面白き映像に満ちたるが、吾人はミャンマー編をとりわけ面白く見つ。猫と人間との距離感 絶妙にして、猫はその家にて飼はると言はんよりはその家の人々と共に暮らしたる様子なり。このやうに言葉にせば些か陳腐なるが、その様子が実際に映像によりて伝はり来たる点、甚だ良し。また、人間の猫への愛情が確かに猫に通じたることが映像より伝はり来たる点もまた実に良し。

 加へて、ミャンマー・インレー湖の風景良し。湖の上に家を建てたる水上生活(映画に登場せる一家は大工仕事と漁業とによりて生計を立てたり)は、最初は異様に見えたれども、見進むる内に、むしろこれこそ人間のあるべき生活様式ならめと思はれ来。それほどに穏やかなる風景なり。小さき手こぎボート(モーター補助付)にて漁に出でたるに、舳先に数匹の猫乗りて前を見つめたるシーン、実に良し(ビヨっと湖に跳び込みたるシーンは必見なり)。上昇するドローンによりて湖の様子が段々広がりて見ゆるシーンも印象的なりき。

 他方の北海道編にも面白き映像豊富なり。ただ、環境の過酷なることと猫の数多くして縄張り争ひなど有ることとにて、切なきシーンも見えたり。吾人が最も悲痛に感じたるは、兄弟の子猫 住処の前の杭に登りて遊びたりしが、冬の風邪にて一匹しか生き残るを得ず、その猫 大きくなりて一匹にて所在なげにその杭に登りたるシーンなり。

 

 さやうなるシーンもありはすれど、もちろん本作は基本的には人の傍らに生きたる猫々の色々なる姿を楽しく眺めしむる映画なり。そのめくるめく映像には、心底感心せらる。これほど多様なる猫の姿をフィルムに収めん為には、膨大の時間と労力とを費やしけむこと、想像に難からず。何しろ相手はかの猫なり、演技せしむる能はず。その猫を相手に、ひたすらに好シーンの偶発を求めてカメラを向け続けたるその蓄積によりて作り上げられたる作品なり。カメラマンを筆頭とする諸スタッフの愛情と忍耐との賜と言ふべし。その貴重なる成果物を、いささかの対価によって見ることを得る、実に有難しと言はざるべからず。

 映画として体裁のために、猫の暮らしに過剰に「物語」を見出さんことを危惧したれど、(さういふ点も無きにしも非ずとは雖も)その点を強調したる作りには非ざりしことも好印象なり。

 また、映画なれば映像がメインなるは当然ながら、写真家としての岩合光昭の仕事も反映せられたる作りになりたるは良き工夫と思ふ。

 BGMやナレーションの比較的控へめなるも良き点なり。欲を言はば、もっともっと、極限まで減らし呉れたくは思へど。ただ、テレビの動物モノにしばしばある、足音等に効果音を付けたり果ては喋らせたりするが如き愚の骨頂は、この映画一切犯したらず。当然のこととは雖も、本作未見の諸賢 この点 安心せられよかし。