文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

古文学習のdisadvantage(1)

 古文を学ぶことは、しばしば外語を学ぶことに喩へらる。確かに、日常使用の言語とは異なる文法と語彙との習得を要するといふ点において、古文は我ら現代人にとりてまさしく外語に異ならず。

 しかるに、たとへば英語を学ぶと古文を学ぶとは等しやと言ふに、さにあらず。

 と言へば、「いかに古しと雖も古文はこれ日本語、我らの用ゐる現代語とも共通項の多ければ、英語よりも学びやすし」といふ意見を予期する人も少なからざるべし。確かにさやうなる点もあるにはあれど、ここにて吾人の述べんとするはその方面にあらず、むしろ英語に比べて古文の学びがたき点につきてなり。

 内容の時代的性質――これぞ一般の外語と古文とを大きく隔つる点なる。

 英語の教科書に載せられたる文章は、内容的には現代の日本語話者にも苦なく理解せらるるものなり。しかれば、言葉(文法と語彙)の不明点を解消せば、その文章をスムーズに理解することを得(う)。また逆に、文章内容のスムーズに理解可能なることが、言葉の上の不明点の推測や解消を易からしむることも多し。

 これに対して古文の場合、源氏物語ならば千年前、奥の細道にても三百年前の文章なり。いかにその内容の普遍なりと雖も、我々は当時の社会を知らず、政治を知らず、恋愛を知らず、心性を知らず――すなはち当時の「常識」を知らず。

 この「非常識」の状態に在りて文章を読まんとすることは、いはば背景知識なくして純粋に言語知識にのみ拠って文章内容を理解せんとすることなり。この点において、古文の学習は外語一般の学習に比して大なるdisadvantageを負ふものと言ふべし。

 この他に、古文の学習には いま一つdisadvantageあり。これにつきては次稿にて論ぜんとす。(続く)