文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

幸福なる日

 吾人、二年半前より大阪府T市に暮らし居るが、自宅の近所に一頭の犬を飼ひたる家有り。通勤の度その家の前を通る。

 朝の通勤時には姿見えざるが、夕の退勤時には、主人を待ちたるか、門扉の後ろに居ること多し。大型犬に属す。イングリッシュシープドッグの雰囲気 少しくありと雖も毛量さまで多からず細身に見ゆ、雑種なるべし。右目は白く濁りて、老犬ならんと思はる。

 吾人 犬を大いに好みたれば折々は彼に近づきたることありしも、互ひの目 合へば吠えらるること常なり。さればやや距離を取りて様子を楽しむことを習慣としたりき。

 

 さて今朝、仕事始めとて重き足をひきずりひきずり駅に向かひ歩みたれば、普段と異なりたる点有り。件の犬、門を出でて座りたるなり。主人 家のまはりを掃除したる間、さやうにして待ちたるなるべし。

 吾人、やや覚悟をきめて犬の前にかがみ、おづおづと手を差しいだせり。犬、吠えもせずまた逃げもせず。吾人がぎこちなく撫づるに任せたり。吾人いささか驚きつつも撫で撫でを楽しみつ。外飼ひなればにや、密なる毛並みには色々の塵埃絡まりて、撫づる我が両手を汚したれど、毫も気にかからず。

 おほよそ満足したりて、さて通勤を再開すべしと、撫でたる手を引きつ。されば、あに図らんや! 彼の犬、前脚を伸ばして我が腕を引きとどめ、撫で撫での継続を催促せり。

 なんぞ応へざるべけんや。かくして、撫で撫で→腕を引く→前脚にてそれを留む、を数回繰り返したり。

 

 やがて主人 掃除を終へて家内に戻らんとせしかば、犬それに反応して吾人の元をつと離れつ。主人 犬の名を吾人に教へ呉れ、吾人 礼を言ひて再び駅へと歩みいだせり。かくして幸福なる時間は終はりを告げたり。

 

 駅の厠へ入りて手を洗ひつ。手指の汚れは落つとも心中には老犬の姿と感触とありありと残りたり。幸福なる時間ははや終はりつれど、今日は依然として幸福なる日にあり続けたるなり。