山本夏彦『完本 文語文』を読み(終へざり)し事
グーグルにて「文語文」と検索するに筆頭に挙がる一書が山本夏彦『完本 文語文』(文藝春秋、2000年)なり。本自体は以前より知りたるも読みたることはなかりしを、吾人が文を綴るにも参考にならんかと思ひて図書館にて借りたり。
さて読み始めたるに、程なくして「これは吾人には合はざるな」と察せられぬ。文語文の称揚を基本的態度とせるやうなるが、吾人にとりては説得せられざるところ余りに多ければ也。一例を挙ぐれば斯くの如し。
和漢の古典には文脈に混乱がない。混乱が生じたのは大正期の岩波用語の時代からである。それまでの文にはリズムがあったから暗誦にたえた。(11頁)
「和漢の古典には文脈に混乱がない」とは、一体いかほどの「和漢の古典」を検討したる結果さやうなる断定に至りしかと疑念を差し挟まざるを得ず。あるいは寧ろ、著者が「文脈に混乱がない」と判断せるを以て「古典」と認定せるならんか。「それまでの文にはリズムがあった」といふも、書かれたるもの一般を指せるか、文芸に限って指せるか、はたまた文芸の中でも著者が「古典」と認定せるものに限って指せるか、不明なり。要するに「昔の歌は良かりき」なる述懐と同レベルの言説と吾人には思はる。
また著者は次のやうにも述べたり。
生活がないから真の文語ではない。(18頁)
むろん私は文語は書けないが、なぜ書けないかは知っている。生活がなくなったからである。それはキモノの生活がないのに似ている。(略)あるのは似てはいても違うものである。(17頁)
昭和二十年敗戦の日までカタカナまじりの文語は、陸海軍に残っていたが、それは口語で生れ口語で育ったものの文語だからむろん本物の妙趣はなかった。(22頁)
かやうに著者は「真の文語」の存在を主張す、されば真ならざる文語もありとの意趣なるべし。それは「生活」なくして書かれたる文語にして、「似てはいても違うもの」なれば「本物の妙趣はな」きもの、と判定せらる。しかるに肝心の、著者がいかにして「真」なりや否やを実際の文章から判断したるかの根拠は示さるることなし。
かやうなる類の、得心のゆかざる記述あまりに多ければ、20頁ほど読みたるところにて断念しつ。
但し、面白く読みたるところも無きには非ず。例へば、谷崎潤一郎や菊池寛が「弔辞」に文語文を用ゐることありし例示(41~43頁)は面白く思へり。また次の如き記述にも関心を持ちたり。
佐藤(引用者注、春夫)は自他の著書の序文や跋文に、また漢詩の翻訳に好んで文語を用いてその妙趣を伝えた。(21頁)
漱石の弟子はたくさんいるが、英文学を継いだ者はいても漢詩文の遺鉢(ママ)を継いだ者はいなかった。(15頁)
昭和三十八年から二十年あまり私は森銑三翁から毎月候文の手紙をもらった。(略)毎月私の雑誌を贈呈すると、そのつどこまごま批評してくれる、それが全文候文なのである。翁は候文最後の人だった。(26頁)