文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

Bluetoothヘッドフォンに驚嘆

 先日、梅田のヨドバシカメラにて新しきヘッドフォンを購(あがな)ひき。幾つか視聴したる結果、ソニーの h.ear on 3 といふ機種を選びたり。約2万6000円也。

※色は緑を選べり。 

 汲めど尽きせぬオーディオ沼においては取るに足らぬ出費なるべけれども、吾人によりては思ひ切りたる買ひ物なりき。音楽は吾人のほとんど唯一の趣味なれば、これくらゐ出費すとも罰は当たるまじ・・・と、己に言ひ聞かせつつレジに向かひたるなり。

 実際に使ひ始むるに、音の良さもさることながら、その使ひ勝手の良さに驚嘆せり。これは吾人にとりて初のBluetoothヘッドフォンなるが、かくも多機能なりとはつひぞ知らざりき。

 右側のカップに触るるによりて、音量の上げ下げ・一時停止・曲送り等、基本作業を手軽に行ふことを得(う)。殊に心憎きは、カップ全体を手にて覆ふによりて、その間のみ音をミュートする機能にて、これは電車に乗りたる時にかすかに聞こえたる車内放送をキャッチせんとする時などに重宝せらるるものなり。

 今まで無線ヘッドホンを遠ざけたるは、「充電」に縛らるるを厭ひてのことなるが、流石にタブレット(吾人はスマワートフォンは持たず)の類に比ぶるに電池の持ちは遥かによく、主に通勤時の使用といふ程度ならば充電は週に1度程度にて済む様子なり。 

 また、本機はかのノイズ・キャンセリング機能を備へたるものなり。最初に使用したる時、音楽のほかに外音も聞こえたれば、「さるはノイズを全く遮断するものにはあらざるな」と、いささか期待外れの感を得たれども、ヘッドホンの電源をオフにしたると同時に外音のドワッと耳に流れ込みたるを以て、キャンセリング機能のいかに著しきかを初めて認知したり。

 されど、何より大きなる影響は「音楽を聴くことの楽しくなる」ことなりと覚えたり。無論それまで楽しからざりしにはあらざれども、耳慣れたる楽曲が言はばヴェールを剥ぎたるがごとき鮮やかさにて再現せられたり(ただしこれは音源によりて差異あり)、またこれまでに聞こえざる/意識せられるざる音の色々と聞こえたりにて、手持ちの色々の音源を取っ替え引っ替え聞かまほしくなる。これは(吾人には経験あらざれども)自動車を新たに購ひたる人がとにかく車をここかしこに走らせまほしくなる心情に同じきものなるべし。さう言ふわけにて、char→メタリカスティーリー・ダン奥田民生→ルパート・ホルムズ→椎名林檎と、節操なくも楽しき音楽生活を送りたるなり。

 

 

ビル・エヴァンスになる

 パソコンに付きたるキーボードと楽器のキーボードとは、名を同じうするだけありて、用途は異なれども叩くときの動作はよく似通ひたり。諸賢は、パソコンにて文字を打ち込むときにスティーヴィー・ワンダーに成りきりたる経験ありや。愉快なる気分をもたらすものなれば一度試さるべし。あるいはグレン・グールドに成りきりてメールを打たば、時候の挨拶にすら深遠なるムード醸し出さるるものなり。

 さて、先日インターネットにて『JazzKeys』といふサイトのあることをたまたま知りぬ。

 これは黒いスクリーンに文字を打ち込むだけのものなれど、その文字入力に応じてピアノの音の出力せらるる点、またその音の連なりの、あたかもジャズピアノの即興演奏のごとく響く点にその特色ありとす。すなはち、パソコンのキーボードと楽器のキーボードとを無理矢理に合一せしめ、文字の入力がすなはち音楽の演奏となるなり。

 吾人も早速試みたるが、キーボードを打つ指の動きに即応して "それらしき" フレーズ淀みなく流れ出づれば、確かに気分はこれピアニストなり。今まではいくら顔面の表情をスティーヴィー・ワンダーに似せたりとて実際に出づる音はただカタカタといふ無機質の打鍵音のみなりき。されど今はさにあらず、確かに我が指が音楽を随時生ぜしめたるなり。この驚愕! この愉悦!

 また、出力したる「作品」をプレイ・バックする機能のあるも、粋なる仕様と言ふべし。下は吾人による作なり。

 上記のごとく出力音はジャズピアノ風味なれば、スティーヴィー・ワンダーグレン・グールドには似つかはしからねど、例へばビル・エヴァンス如何。吾人、「フラメンコ・スケッチ」(マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』所収)5分56秒よりのエヴァンスのソロを、史上もっとも美しき音楽演奏の一つと認むる者なるが、この『JazzKeys』にて文章を打ち込む時は、それに肉薄する陶酔・・・には至るを得ざるも、少なくとも彼と同じき土俵に立ちたるやうなる大錯覚を得ることには成功せり。

  極めて残念ながら漢字や仮名の入力にはいまだ対応せずして、これを楽しむにはアルファベット入力のみなれば、吾人にとりては実践の機会に乏し。ただ仕事にて時折英文メールをひねり出す必要ある際には必ずこれを用ゐることとせり。

 またこれを玩ぶ内に吾人、一つの好(よ)き着想を得つ。すなはち「合奏」の実現なり。YouTubeには楽器の練習のための「ループ演奏」の音源多く投稿せられたり。その中の、ジャズ・ドラムのループ音源(テンポの遅きぞ良き)を再生しつつこの『JazzKeys』にて文章を打つによりて、ソロ・ピアノよりピアノ・デュオへと発展せしむるを得(う)。ソロよりも一層 音楽を作りたる気分を高むるものなればオススメなり。

 

 

歯ブラシはヘッドの薄き。

 先日テレビを見たるに、CMにて岡田准一かく訴へたり。

 「歯ブラシはヘッドの薄さこそ重要なれ!」

 これを聞きし時、吾人かつは驚きかつは呆れたり。

 今までヘッドの薄さを重んずる宣伝文句、つひぞ聞きたること無かりし。それをさも以前より認識したるがごとく言ひ募る、これ厚顔と言はざるべけんや?

 せめて「我が社はこの度『歯ブラシはヘッドの薄さ重要なり』と気付くに至れり」と言ふべし、と思はるるなり。

 さて折しも歯ブラシを交換せんと考へたる時期なれば、件の薄ヘッドのものを購ひつ。試みるに、確かに奥歯を磨く時の動きに自由度を増したるようにおぼゆ。競合他社も宜しくこの方面を追究すべし。

 またスーパーマーケットやドラッグストアにて見るに、歯ブラシのバリエーションの甚だ多きに半ば閉口せらる。ここに「薄ヘッド」といふ一つの判断基準の得られたるは幸ひなり。

 それにしても、歯ブラシなぞといふ最早 進化すべからざるやうに思はるる道具にもなほ思はぬ改良の余地ありきといふことは、なにか未来への希望を抱かするニュースのごとく吾人には思はれたり。

 

 

United by Emotion?

 昼休みに職場近くの定食屋に入(い)りたるに、珍しくもテレビをつけたり。「珍しくも」とは、普段は有線を流したればなり。

 番組はオリンピック、これよりトランポリンの競技を中継すと言ふ。

 有り体に言はば、吾人オリンピックやワールドカップの類には極めて冷淡なる視線を注ぎ来たれる者なるが、クライミングとトランポリンとには競技としての関心あり。折しも次はトランポリンなりと言へば、食事がてら いささか見むと思へり。

 ところが、流るるは競技経験者による見どころ解説やら今回の注目選手のヒストリーやらその選手の家族のインタビューやらにて、肝心の競技は一向に始まらず。次第に閉口せられ、鑑賞の意欲も減退せり。

 かかる色々の背景的情報の提供を、全く不要と思ふにはあらず。「競技をより楽しむために」といふ名目も偽りにはあらじ。しかりと言へども、これほどの分量の背景的情報が(競技開始までの単なる時間稼ぎにはあらで)需要としてあるとせば、もはや求められたるは(もしくは、メディア側が「求められたり」と考へたるは)、競技そのものにはあらずして、それを含む「物語」にあらずやと思はるるに至れり。

 してみると、本番の競技はその物語を成立せさする最後のピース(に過ぎぬ)ならんか。

 ところで、今回のオリンピックのモットーは"United by Emotion"なりと聞く。吾人このモットーを目にするたびに、何とも言へず恐ろしき気持ちに駆り立てらる。「情動により結束せらる」・・・それは社会的に危険なる事態にはあらずや? これがモットーとして成立するといふ事実に、オリンピック的価値観と吾人の価値観との隔絶をまざまざと感じざるを得ず。

 さて今まで吾人は、このemotionとは、各プログラムの競技(の卓越さ、熱烈さ)により催さるるものと思ひたりき。されどこのテレビの様子を見るに、或いはこのemotionとは、上記の「物語」によりて催さるるものならんか。結束のための感動、感動のための物語、物語のための競技・・・ここに、言はば二重三重の隔絶を感ずることとなれり。

 

 焼肉丼と小うどんとを食ひ終へ、麦茶を二杯飲みたれど、競技なほ始まらず。吾人は勘定を済ませ店を出でにき。

 

 

マーフィーの法則

 吾人 幼時よりスニーカーを好めり。殊にニューバランスに対しては信頼を超えて信仰に近き思ひを成したれば、10歳頃より今にいたるまで20年余、吾人の足元は色こそ幾度も変はりたれどNの字 失することなし。

 スニーカーの利点は言ふまでもなく履き心地の良さと着脱の容易なるとにあり。かたや欠点は、スーツに似合はざると雨に弱きとにあり。前者につきては、スーツを要せざる職種につくことによりて吾人これを解決せり。しかれど後者につきては如何ともしがたし。ひとたび降れば靴下まで濡るるに甘んじ来たる、受け身の人生なりき。

 

 この解決策として2年ほど前に導入したるが、パラディウムなるメーカーの「PAMPA PUDDLE LITE WP+」といふ靴なり。これはスニーカーとゴム長靴のあひの子と言ひつべきものにして、スニーカーの見た目と履き心地ながら、甲の部分はゴムなれば水を弾く。 

 効果は確かにして、これを導入して以来、雨の日に靴下を濡らすこと絶えたり。蒸れがちなるが短所なれば常時これを履かんとは思はざれど、雨対策としては必須のものとなれり。

 ただし、この靴の真に有益なるは、上記のごとき実際的効果よりもむしろ、その呪術的効果にあり。

 すなはち、天気予報なり空模様なりを見て、「今日は雨降るべし」と判じてパラディウムを履きて外出するに、大抵 雨は振らざるなり(言ふまでもなきことなるが、「今日は大丈夫ならん」とて普段のニューバランスを履きて外出せば、しばしば降雨に見舞はる)。

 要するにパラディウムを履くことは雨降りの対策となるのみならず雨降りの「予防」ともなるなり。良き買ひ物なりきと言はざるべからず。

 

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昔を今になすよしもがな

 かまいたちの漫才に、ポイントカードにまつはるものあり。濱家「もし過去に戻ること能ふとせばいつに戻らまし」と問ふに、山内「初めて店員よりポイントカードを勧められたる時に戻らまし」と答ふ。

 その心は、「初めてカードを勧められたる時、何の気なしにそれを断りつ。その時より早10余年を経て、いまだに会計のたびにカードを勧めらる。されど今になりてカードを作りたればとて、最初に勧められし時よりいま現在にいたるまでに獲得したる筈のポイントはもはや帰り来ず。この『想定上の積算額』のことを思ふに、今更になりて作らば却りて損をしたるやうに思はるればなり」といふものなり。

 吾人、この心情に大いに共感す。吾人にも思ひあたる節いくつもあればなり。

 YouTubeプレミアム、その筆頭なりき。

 生活のBGMとしてYouTubeにて音楽を流すは早10年以上の習慣となれり。また動画を見るも稀ならず。しかるにいつごろよりなりけむ、再生のはじめやら途中やらに広告のはさまるることとなれり。加之(しかのみならず)、その度合ひは年を追うて悪辣になれるは衆人の知るところなり。長さは増し、頻度も増せり。YouTubeにて音楽や映像を楽しむ日常は、裏を返さば、広告をスキップせんとて幾度となく待機する日常なり。一種のディストピア的様相を呈したり。

 月額いくばくかを払ひてYouTubeプレミアムに加入せば、これら広告をことごとく除くを得(う)。されど、広告スキップにいそしむ日常に入(い)りてすでに久し。今プレミアムに入りたらば、これまで広告を逐一スキップし来たりし日々をいかに納得すべけんや?……かくのごとく思ひて、加入をためらひつるなり。

 されど先日、遂に吾人の堪忍袋の緒は切れにけり。かの広告、近年は2連続なるもしばしばにして、のみならず広告そのものの品質にも劣化うかがはるるやうになれり。もはや付き合ひきれず。もう沢山なり。

 決心だにすればあとは早し。プレミアム加入はネットにて即座に手続きせられ、文字通り次の瞬間には広告一切無縁のYouTube生活に「帰還」せり。しかるにこれ、快適といふも疎(おろ)かなり。今となりては、何をあれほどまで逡巡したるか、わが心ながら不思議に思はる。

 よって吾人、もし山内に語りかくる機会あらばかく伝ふべし。「貴君タイムマシンを要せず。今すみやかにポイントカードを作り給へ。さればこれまでの『想定上の積算額』は定めて念頭より失すべし」と。

 

 ところで、いま吾人 気にかけたるは電動歯ブラシなり。手もて成すよりはさぞや磨き良きならんと思はるれども、今更にして電動に持ちかへては、今までン十年手磨きし来たるが水泡に帰するやうに思はれて、容易に手を出(いだ)しがたきなり。

 

 

あばたもゑくぼ

 去年の暮れに腕時計を新調せしことは以前の記事にも記せるがごとし。Gショック DW-5600、普段使ひのものとしては吾人にとりて初のデジタル腕時計なり。

 その前に使ひたるものはオリエントの自動巻きのものにして、針の進み若干速かりければ、2週間に1度ほどのペースにて時刻の修正を要せり。その更に前に使ひたる電池式の腕時計はほとんど時刻の修正を要せざりければ、吾人これをいささか不便に思ひたり。

 しかるに今回は電池式しかもデジタルのGショックなれば、もはや電池の切るるまでは再修正は不要なるべし、と思ひきや、1ヶ月当たり2~3秒狂ふことに気付けり。些細なるズレとはいへども、重ならば見過ごしがたきズレにならんことなれば、月初めにその数秒を修正すること、吾人の新たなるルーチンとなれり。

 いはば月に1度、腕時計の面倒を見やることになりたれど、かやうに若干の手間を掛くることも、また かの腕時計への愛着を深むる一要因となりたるやうにも思はる。

 しかれどこれは、吾人かれを大いに気にいりたりといふこと前提にあればなるべし。もしニュートラルなる視点にてこのことを見ば、「余計なる手間を掛けしむる奴ぞ」と鬱陶しく感ずるに相違なからん。いはばアバタもヱクボといふやつなるが、これもまた物を所有することの一つの楽しみなりと言ふも可ならんか。

 

 

来訪者

 けふはよく晴れたり。

 通勤時、四条大橋わきの電線に一羽のツバメとまりたるに気づきぬ。しきりに鳴き声をいだせる、あたかも「われ来たりぬ われ来たりぬ われ来たりぬ…」とひとびとに誇示せるがごとく聞こえたり。

 ようこそ いでましたれ!

 

 

シン・エヴァ目撃せり

[注意] 本稿は映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』につきてのものにして、いはゆるネタバレを含めり。

 

 映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を近所の映画館にて鑑賞す。ネタバレを避けんがために公開初日の鑑賞とせり。平日といふこともありてか、チケットは問題なく購ふことを得。

 一言にて言はば、興奮措く能はざる、格別の映像体験なりき。

 2時間半といふ長尺の作品とて、吾人 厠の不安大きければ通路側に席を取りたれども(少なくとも2度は退席することを覚悟せり)、幸運の故か作品に集中したる故か、1度も退席する必要をおぼえざりき。

 さて、本作につきて特筆すべきことは煎じ詰めたらばただひとつ、「投げっぱなしにせずしてシッカリと終はらせつ」といふことなり。広告にありし「さやうなら、すべてのエヴァンゲリオン」とは、つゆ偽りにはあらざるなり。

 新劇場版は、「序」のころより「今回は大団円にす」と公言せりとは記憶したるものの、まさかそれを本当に実現せしむとは! しかもエヴァらしさを損なはずして、と、大いに驚嘆せられき。

 全体的に見ても本作は、娯楽性を大いに備へつつもエヴァとして違和感なく、ファンにとりても未体験ながら拒否感を催さざる、いはばあらまほしき新作にして完結作なりと思はる。

 

 吾人いま言ひたきことは、おほむね以上なり。とりあへず近々また見に行かんとす。 

 

 以下、こまごまとしたること。

・目覚めたるシンジに語りかくるトウジを筆頭に、「村」のシーンは人々の優しさに満ちをり、あの殺伐としたる『Q』の雰囲気より救はれたるがごとくおぼえて、吾人の涙腺をいささか刺激せり。

・「そっくりさん」の腕カバーのシーンは劇場にてもウケたりき。

・佳境の、シンジがミサトに「リョウジ」の話をしたるシーンには思はず感涙せり。シンジの成長を示すものにもありて、本作の最重要シーンの一つかとも思はる。

・ゲンドウが物語より「下車」するくだりも見事なりき。求め続けたる亡妻のすがたを、彼が背を向け続けたる息子の中に見出せるあっけなさよ。

・またこのシーンにつきては、「父と子の対話」おこなはれたるなるが、その前にケンスケがシンジに「父と話をすべし」と勧むるシーンありて、「なんと非現実的な」と(観客もその場に居たるアスカも)思ひたるも、それが終盤に実現してクライマックスに向かへるも大なる驚きなりき。

・まったくの余談ながら、終劇後に拍手したるは、吾人といま一人ほどなりき。吾人は面白き映画を見たる後は拍手したしと思ふも、なかなか勇気いでずして実行すること少なし。今回も拍手する人はほとんどなし。なにとなく寂しく思はるるも、映画のマナーにつきては個々人の考への相違大きければ、深追ひはすまじ。

 

 

正しき恨み方(2)

 前稿の続き。

 「文法上許容スベキ事項」は全16項目より成る。全文はインターネットにて閲覧可能なれば*1、ここにてはその中より幾つかを取り上げて見んとす。

 まづ、前稿にて取り上げたる「恨む」については第1項にて下記のごとく説明あり。

一、「居リ」「恨ム」「死ヌ」ヲ四段活用ノ動詞トシテ用ヰルモ妨ナシ

 遡りては「居り」はラ行変格活用、「恨む」は上二段活用、「死ぬ」はナ行変格活用なるも、現代語より類推せらるるは四段活用なれば、これを "許容" すとの趣旨なり。

三、過去ノ助動詞ノ「キ」ノ連体言ノ「シ」ヲ終止言ニ用ヰルモ妨ナシ

 例 火災ハ二時間ノ長キニ亘リテ鎮火セザリ

 過去をあらはす「し」は現代にても古めかしさを出さんとする場合によく用ゐらるるものなるが、上の説明にあるごとくその終止形は「き」なり(×:鎮火せざり ○:せざり)。しかれど(「し」とは子音の異なれる故か)これはあまり用ゐられず、終止形にあたるところにも「し」を用ゐること多し。以て許容とせり。

十一、てにをはノ「トモ」ノ動詞、使役ノ助動詞、及、受身ノ助動詞ノ連体言ニ連続スル習慣アルモノハ之ニ従フモ妨ナシ

 例 数百年ヲ経ルトモ

   如何ニ批評セラルルトモ

   強ヒテ之ヲ遵奉セシムルトモ

 

十二、てにをはノ「ト」ノ動詞、使役ノ助動詞、受身ノ助動詞、及、時ノ助動詞ノ連体言ニ連続スル習慣アルモノハ之ニ従フモ妨ナシ

 例 月出ヅルト見エテ嘲弄セラルヽト思ヒテ

   終日業務ヲ取扱ハシムルトイフ

   万人皆其徳ヲ称ヘケルトゾ

 第11項はいはゆる逆接仮定を示す「とも」、第12項は引用を示す「と」につきてなり。これらは終止形に接続するものなれば、上掲例はそれぞれ「(ふ)とも」「批評せらるとも」等となるはずなり。しかれど終止形に接続する助詞すくなければ、これらも連体形に接続せさする例多きなり。

五、「ヽヽセサス」トイフベキ場合ニ「セ」ヲ略スル習慣アルモノハ之ニ従フモ妨ナシ 

 例 手習サス 周旋サス 売買サス

 「す・さす」(口語の「せる・させる」)は助動詞なれば動詞に接続す。口語にては「手習させる」「売買させる」のごとき表現まったく普通なれど、改めて見ば、これらは名詞に助動詞つづきたるものなり。されば「手習さす」「売買さす」のごときは、いはば口語に基づける文語法といふべし。

九、てにをはノ「ノ」ハ動詞、助動詞ノ連体言ヲ受ケテ名詞ニ連続スルモ妨ナシ

 例 花ヲ見ル

   学齢児童ヲ就学セシムル義務ヲ負フ

   市町村会ノ議決ニ依ル限リニアラズ

 かやうなる「の」の用法は口語には見られぬものなれば純粋なる文語法なるかと思ひきや、さにあらず。古くはなき語法なることは、つとに本居宣長の『古事記伝』にて指摘せられたり。漢文訓読の影響による語法と目せられ、近代文語文にても比較的いかめしき雰囲気の文章に好まるるもののごとし。

七、「得シム」トイフベキ場合ニ「得セシム」ト用ヰルモ妨ナシ

 例 最優等者ニノミ褒償ヲ得セシム

   上下貴賤ノ別ナク各其地位ニ安ンズルコトヲ得セシムベシ

 これも例多し。「得せしむ」の「せ(←す・さす)」と「しむ」とはいづれも使役をあらはすものなれば、2つ重ぬるは過剰なりとす。「得さす」乃至「得しむ」にて足れり。かやうに可能表現を重ぬるは他にも例ありて、口語にても「できうる限り」のごときあり。

 ところで「文法上許容スベキ事項」は「得せしむ」にのみ言及したれど、実際には「せしむ」といふ重複使役は「得(う)」以外の動詞にも続きうるは勿論なり。しかれば何故に「得せしむ」に限りて "許容" せりや、故を知らず。慣用表現として殊に頻用せられたるならんか。

 * * * * *

 以上、全16項より数項を拾ひいだせり。ここに "許容" せられたる数々の語法は、すでに大いに世におこなはれたれば最早 誤りと見なしがたしとて選ばれたるなるべし(当時 文語を書くことの一般的なりしことをよく示せり)。

 ところでその一方、同じく破格の例多く存しながら、この「文法上許容スベキ事項」に挙げられざる、すなはち "許容" せられざる語法もあり。その1つ、「仮定を示す『已然形+ば』」なり。

 平安時代までの言語資料を確認するに、モシ~ナラバといふ仮定条件は「未然形+ば」によりて示され(例:花さかば=花ガ咲イタラ)、他方「已然形+ば」は~ナノデといふ確定条件を示せり(例:花さけば=花ガ咲クノデ)*2。しかるに時代下りてこの「已然形+ば」も仮定条件に用ゐらるるやうになり、やがて「未然形+ば」を駆逐するにまでいたれり(口語文法にて「已然形」といはず「仮定形」といふは、この故なり)。以下に明治期の文語文より数例を挙ぐ。「もし」と共起したれば仮定の意味なること明らかなる例なり*3

(も)之ヲ爲セハ國民服セス

森有礼 訳「宗教」『明六雑誌』6、1874年)

 

其事若シ國家ノ安寧ニ害アレハ政府ハ自己ノ特權ヲ以テ嚴ニ之ヲ禁スル憲法ヲ示令スルヲ得可シ

加藤弘之 訳「米國政教(三)」『明六雑誌』13、1874年)

 

「ラプランド」人ノ中ニ於テハ若シ其族中病メルモノアレハ呪師ハ其前額ヲ吸ヒ其顏面ヲ吹ヒテ之ヲ治センヿ(こと)ヲ謀ル

(松下丈吉「未開の遺俗果て何れの所に滯在するや」『東洋学芸雑誌』5、1882年)

 さて、この語法の「文法上許容スベキ事項」に含まれざるは一体何故なりや。これにつきて、日本語学者の野村剛史は下記のごとき興味深き主張をしたり*4

しかしこの「已然形を仮定条件に使う」という現象は、かなり古く(鎌倉時代)から生じまた極めて一般的なので、当然「許容事項」として認めておかなければならないはずのものである。ところがこの点に触れると、不都合が生じる。「教育勅語」(明治二三発布)は次のように普通文で書かれている。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。「緩急アレハ」は已然形による仮定条件である(未然形は「緩急あらば」)。「已然形による仮定条件」を「許容」するとなると、「許容事項」は「教育勅語」を上から目線で「許容」することになる。しかし、「教育勅語」は「勅語」であって天皇のお言葉である。その勅語を「許容」などしてよいであろうか。許容事項に「已然形による仮定条件」が立項されていないのは、この点を考慮した可能性がある。冗談ではなく、「勅語を「許容」するのか」の如き揚げ足取りは、戦前の日本ではしばしば事柄の命取りになる可能性があった。

 つまりこの語法を "許容" に含まざるは、国家に恨まれざる、否、恨みられざるやうにとの忖度なりき、との説なりけり。

*1:http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/kyoyo.htm
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992701/2

*2:注、ただし「已然形+ば」の用法はいますこし広く、ここに後世の混同の由来ありとす。

*3:用例は「日本語歴史コーパス」により検索。

*4:野村剛史『日本語「標準形(スタンダード)の歴史:話し言葉・書き言葉・表記』(講談社、2019年)、111頁。ゴチックは引用者による。

 

ムッシュを悼む

 3月1日は "ムッシュ" こと かまやつひろしの命日なり(2017年逝去)。彼は吾人のもっとも敬愛するミュージシャンの一人にして、吾人にとりてのアイドル的存在なり。 

 吾人のもとに、ムッシュのサインあり。2014年のライブ後に「出待ち」して得たるものなり。もっとも出待ちといふにはいささか語弊ありて、その実態は、控へ室の向かひにたたずみて、その扉の開くたびにムッシュに熱き視線を送りたれば、かれ気をきかせてこちらに向かひくれしなり。嬉しといふも疎(おろ)かなり。

 されば持参したる自伝『ムッシュ!』(名著なり)にサインを請ひ、握手を請ひ、しばらく話をせり。その内容はほとんど記憶せざれど、柔(やは)き手の感触は今に忘れず。

 世を去りてはや数年を経れども、彼は残しおきたる作品とこの感触とを通して今日もまた吾人に歌ひかくるなり。

 


 

正しき恨み方(1)

 日本語のすべての動詞にはそれぞれ活用といふものあり。

 現代語の「する」といふ動詞を例にして言はば、「ない・て・するする時・すれば・しろ」と、かくのごとく文中の役割に応じて形を変ふるなり。

 一方 文語の文法(いはゆる古典文法)を見るに、口語(現代語)と同じ動詞なれども活用には相違あり。例へば上記の「する」の場合、古典文法にては「ず・て・する時・すれば・せよ」のごとく活用す。

 ただし、実際に文語文を読み書きする時にこれらの相違を動詞ごとにいちいち記憶する必要はなし。その故は、文語と口語とで、同じ動詞ならば活用のタイプも同一なるが原則なればなり。例へば「買ふ」といふ動詞は文語にても口語にても四(五)段活用なり。一般化して言はば、口語の五段活用動詞は文語にては原則として四段活用、上一段活用は少数の例外を除き上二段活用、下一段活用は全て下二段活用、といふ具合に対応するなり。

 されば、現代の口語からの類推によりて、古典文法の動詞は活用することを得。文法に異なりあるにもかかはらず活用を運用することの比較的容易なるは、いはば文語と口語とで背骨が共通したればなり。

 

 されども、この共通には例外も存す。その一つに「恨む」といふ語あり。

 口語においてはこの動詞は五段活用なれば、文語においてもそれに即して「恨まず・恨みて・恨む恨む時…」のやうに活用せさせんと考ふるが自然なり。しかるに、古典作品を見るにこの動詞は次のように活用せり*1

 世の道理を思ひ取りて恨みざりけり(源氏物語

  ・・・未然形の例

 ふる雪につもる年をばよそへつつ消えむ期もなき身をぞ恨むる蜻蛉日記

  ・・・連体形の例

 「何しに今宵ここに来つらむ」と恨むれば、(落窪物語

  ・・・已然形の例

 これらの例より、この「恨む」といふ動詞はかつて上二段に活用したりしこと明白なり。『日本国語大辞典』(第2版)によるに、現代語のごとき四段(→五段)活用の例の現るるは江戸時代まで下るやうなり。

 されば文語文においては、平安時代の語法に準拠すべしといふ考えにては「恨みず」のごとき上二段活用、より時代の下りたる語法にても良かるべしといふ考えにては「恨まず」のごとき四段活用、それぞれ標準とならん。

 さればいかにせましや?

 吾人のこのブログのごとき、言はばお遊びの文章ならば、別にいづれにても差し支へあるまじ。されどここに我々の想起すべき事柄あり。すなはち、例へば明治時代や大正時代には、この文語文 実用の書き言葉として広く用ゐられたりといふことなり。法律文に至りては、その口語化は戦後になりてのことなりき。よりて、上記の「恨む」のごとき事例につきて実務的なる観点より「いづれを用ゐるべきや」といふ問ひ生ずるわけなり。

 さてさて、これに答ふるがごとき形にて1905(明治38)年に文部省の告示したる文書あり。名づけて「文法上許容スベキ事項」なり。

 次稿にて、この「文法上許容スベキ事項」について少しく見てみんとす。(続く)

*1:底本は小学館・新編日本古典文学全集。国立国語研究所「日本語歴史コーパス」により検索。

 

会議中のB.G.M.

  前稿にてオンライン会議の特質をいろいろ述べ立てたるが、最近また新たなる特質を見出したり。それは、従来の会議と異なりてオンライン会議にては「BGM」を置くことの可能なる点なり。

 すなはち、パソコンに会議画面を表示しつつ音源を再生し、会議音声と音楽との音量を上手く塩梅せばBGM付きの会議となるなり。吾人 近ごろの会議にて時折これを活用することあり。

 されば、会議に最適のBGMは何なりやといふ問題生ずるは自然のことなり。長時間にわたり延々と続く会議ならば、フランク・ザッパの「拷問は果てしなく」(The Torture Never Stops)など相応しかるべし。


 他方、さやうなる自虐的方面にはあらで、会議の雰囲気を楽しからしむる選曲もまたあるべし。例へば、スコット・ジョプリンの「ジ・エンターテイナー」など流さば、従来興味を引かざる議題も俄かにあたかも愉快なるものの如くおぼゆるならんか。試みる価値あるべしと思はる。


 

 

『リングフィット アドベンチャー』を推す

 長年の運動不足の解消を目論みて始めし『リングフィット アドベンチャー』、結果的にここ数年にて最も良き買ひ物なりきと考ふ。

 運動不足の解消を目的とせりと雖も、もとよりさほど体調不良等を感じたるには非ず。ただ(コロナ禍もあり)運動量 殊に下がりたることは確かにして、それが長期的に健康に悪影響を及ぼさんこともまた容易に想像せらるれば、何らかの対策を求めたりしなり。「ラジオ体操を数回せば一日の運動量に満つ」とネットで読みし以降、しばし行ひたりしも、習慣として根付くには至らざりき。

 『リングフィット アドベンチャー』は自らの運動に応じて画面内のキャラクターが(吾人の投影として)動き、また各種の運動が敵への攻撃となる、いはば肉体直結式のロール・プレイング・ゲームなり。ここに楽しみありて、今に至るまで五ヶ月間継続するに至れり。すなはち運動の習慣を、高校卒業以来およそ十五年ぶりに奪回せりと言ふべし。

 今までも、運動の習慣を得んと試みることは幾度かありき。例へば大学院生の頃は(自宅に風呂の無かりしことも手伝ひて)大学内の屋内プールに通ひたり。されど長くは続かず。水泳は、他の運動に比ぶれば手軽なる運動と言い得るも(体操着や上履きは要らず、水着の類だに有らば足る)なほ習慣として根付かしむるにはハードル高かりし。少なくとも水着やタオル・シャンプー等の事前準備を要し、研究室とプールとを往復する必要あり。

 また腹筋運動や背筋運動、スクワットといふ類の筋力トレーニングを行ふこともあり。これらは自宅にて手軽に取り組むことを得るものなれど、それ自体の楽しみ薄く、同じく習慣とは成らざりしなり。また一回当たりの時間も短くなりがちなり。されば結果も出難し、されば意欲いよいよ衰退せるなり。

 翻りて『リングフィット アドベンチャー』は、運動に適したる服装に着替へ(吾人は上はTシャツ、下はユニクロにて購入せるステテコを之に宛がひたり)、ゲームを起動するとふ手間は有るには有れど、運動に至るハードルは概して非常に低しと言ふべし。またゲームの楽しみあること上述の通りなり。すなはち従来の吾人の挫折要因がクリアせられたる物なり。これに依りて、吾人めでたくも運動の習慣を獲得することを得たり。また習慣化せられたれば結果も出で来たり。良きサイクルに入ることを得るなり。

 のみならず、『リングフィット』には下記の如き思はぬ副産物さへあり。

1. 『リングフィット』をせざる日にも、それをカバーせんとて筋トレ(歯磨き中のスクワット等)を試みるやうになりたり。また『リングフィット』にはゲームを起動せずともリングのみにて簡易トレーニングをする「ながらモード」もあり(ポイントも溜まる仕様なるは心憎し)。

2. 仕事にはかばかしき進捗なき日にも、『リングフィット』をせば「よし、乃公は少なくとも今日運動はしつるなり」とて、いくばくかの自己肯定感を得らるるなり。

 さやうなるわけにて、特に吾人の如く日がな一日パソコンに向かひたる類の労働環境下にある人に之をお勧めしたし。

 ちなみに肝心の成果は如何と言はば、吾人の場合はダイエット目的には非ずして(むしろ体重の増加を希望す)、主に運動不足の解消及び体重・筋肉量の増加を期せり。しかるに、運動不足の解消は果たせりと信ず、また筋肉につきては、開始後1ヶ月ほどにて上半身のシルエットのやや(少々ながら確実に)変化せるを感ず。これまでに無きことにして、いささか感動す。

 ただしそこから伸び悩みたり。現在、吾人 身長約180センチ・体重約60キロにして、今1、2キロほど増量したき気持ちあり。されどこれは『リングフィット』よりは食事面の積極的対策を要するかと思はる。

 

 

手を洗ふ男

 吾人元来 臆病の気ありて、「鍵は閉めたりや」「コンロは消したりや」の類、しばしば気にかかりて、二度三度と確認することも珍しからず。

 この仕草に、昨年来のコロナ禍の為に一つ加はりたるものあり。「手は洗ひたりや」是なり。

 手洗ひ自体は、習慣としてすっかり定着せり。ただ問題は「充分なる手洗ひなりや否や」なり。

 「充分」とは――いかんせん相手はウイルスなれば、目視にて確認する能はず。聞くところに依れば、手指を石鹸にて10秒程度洗ひたる後に流水にて洗ひ流さば充分なるべしと。吾人手洗ひの際に殊更にテンカウントを為すにはあらねど、手のひら・各指・手の甲をそれぞれ数度づつ擦りたれば所定の秒数は満つべしと思ひてそのやうにしたり。その際には特に問題はなし。ただ、無意識にササっと洗ひを済ましたる後にフと「今の手洗ひは不充分には非ずや?」との不安に囚はるること、時折あり。石鹸は確かに付けつとは雖も10数秒の丁寧さを施したる記憶なし。されば、その場にて再び手を洗ふことと相成る。例へば駅のトイレにて、来たる電車を気に掛けつつ手を洗ひ直す様、我ながら滑稽なり。

 斯くの如き行為の理由を自己分析するに、COVID-19を恐るるが故なるは勿論なれど、より深層的には「果たすべきことを未だ果たさざる居心地悪さ」を解消せんとの心理に由来するなるべし。大袈裟に言はば一種の強迫観念なり。

 我ながら面倒なる性格なりとは思へども、但し吾人を勇気付くる男あり。

 その男は、過酷なる状況を幾度も生き抜きたる理由として、「我 臆病なればなり」と答へたりといふ。男の名はデューク東郷、人呼んでゴルゴ13なり。

 吾人が慎重に手を洗ひ直したる時、そこには彼の男の精神宿りたるなり。ゆめ背後に立つべからず。