文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

手を洗ふ男

 吾人元来 臆病の気ありて、「鍵は閉めたりや」「コンロは消したりや」の類、しばしば気にかかりて、二度三度と確認することも珍しからず。

 この仕草に、昨年来のコロナ禍の為に一つ加はりたるものあり。「手は洗ひたりや」是なり。

 手洗ひ自体は、習慣としてすっかり定着せり。ただ問題は「充分なる手洗ひなりや否や」なり。

 「充分」とは――いかんせん相手はウイルスなれば、目視にて確認する能はず。聞くところに依れば、手指を石鹸にて10秒程度洗ひたる後に流水にて洗ひ流さば充分なるべしと。吾人手洗ひの際に殊更にテンカウントを為すにはあらねど、手のひら・各指・手の甲をそれぞれ数度づつ擦りたれば所定の秒数は満つべしと思ひてそのやうにしたり。その際には特に問題はなし。ただ、無意識にササっと洗ひを済ましたる後にフと「今の手洗ひは不充分には非ずや?」との不安に囚はるること、時折あり。石鹸は確かに付けつとは雖も10数秒の丁寧さを施したる記憶なし。されば、その場にて再び手を洗ふことと相成る。例へば駅のトイレにて、来たる電車を気に掛けつつ手を洗ひ直す様、我ながら滑稽なり。

 斯くの如き行為の理由を自己分析するに、COVID-19を恐るるが故なるは勿論なれど、より深層的には「果たすべきことを未だ果たさざる居心地悪さ」を解消せんとの心理に由来するなるべし。大袈裟に言はば一種の強迫観念なり。

 我ながら面倒なる性格なりとは思へども、但し吾人を勇気付くる男あり。

 その男は、過酷なる状況を幾度も生き抜きたる理由として、「我 臆病なればなり」と答へたりといふ。男の名はデューク東郷、人呼んでゴルゴ13なり。

 吾人が慎重に手を洗ひ直したる時、そこには彼の男の精神宿りたるなり。ゆめ背後に立つべからず。