文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

United by Emotion?

 昼休みに職場近くの定食屋に入(い)りたるに、珍しくもテレビをつけたり。「珍しくも」とは、普段は有線を流したればなり。

 番組はオリンピック、これよりトランポリンの競技を中継すと言ふ。

 有り体に言はば、吾人オリンピックやワールドカップの類には極めて冷淡なる視線を注ぎ来たれる者なるが、クライミングとトランポリンとには競技としての関心あり。折しも次はトランポリンなりと言へば、食事がてら いささか見むと思へり。

 ところが、流るるは競技経験者による見どころ解説やら今回の注目選手のヒストリーやらその選手の家族のインタビューやらにて、肝心の競技は一向に始まらず。次第に閉口せられ、鑑賞の意欲も減退せり。

 かかる色々の背景的情報の提供を、全く不要と思ふにはあらず。「競技をより楽しむために」といふ名目も偽りにはあらじ。しかりと言へども、これほどの分量の背景的情報が(競技開始までの単なる時間稼ぎにはあらで)需要としてあるとせば、もはや求められたるは(もしくは、メディア側が「求められたり」と考へたるは)、競技そのものにはあらずして、それを含む「物語」にあらずやと思はるるに至れり。

 してみると、本番の競技はその物語を成立せさする最後のピース(に過ぎぬ)ならんか。

 ところで、今回のオリンピックのモットーは"United by Emotion"なりと聞く。吾人このモットーを目にするたびに、何とも言へず恐ろしき気持ちに駆り立てらる。「情動により結束せらる」・・・それは社会的に危険なる事態にはあらずや? これがモットーとして成立するといふ事実に、オリンピック的価値観と吾人の価値観との隔絶をまざまざと感じざるを得ず。

 さて今まで吾人は、このemotionとは、各プログラムの競技(の卓越さ、熱烈さ)により催さるるものと思ひたりき。されどこのテレビの様子を見るに、或いはこのemotionとは、上記の「物語」によりて催さるるものならんか。結束のための感動、感動のための物語、物語のための競技・・・ここに、言はば二重三重の隔絶を感ずることとなれり。

 

 焼肉丼と小うどんとを食ひ終へ、麦茶を二杯飲みたれど、競技なほ始まらず。吾人は勘定を済ませ店を出でにき。