文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

文語文を書く人

 吾人がかやうなる文章を書き始めたる理由は、かやうなる文章を読みたしと自身が思へば也。文語文を用ゐて現代のことを書き記したる軽きエッセイ的の文章を読みたしと思へり。

 しかるに検索すれど管見に及ばず。商業作家はおろか、ブログ等にてもかやうの文章を発表せる人を見付くること未だ能はず。ツイッター等を見居るに、旧仮名遣ひや旧漢字を用ゐて文を綴る人はさまで珍しからず。他方、文語文を用ゐたる人をトンと見かけざるは不思議に思はる。

 いかにせよ、もし存在せざる文章を読みたしとせば、自身で書く外に手段これ無し。

 

 文語文でエッセイを書く人のかくも稀なるは何ゆゑぞや。これはエッセイに限らず小説類においても同様と思はる、則ち散文における事象也。言ふまでもなく、短歌や俳句などの韻文詩においては今もなほ文語を用ゐること一般的也。唐突なる話なるが、吾人が母 数年前に突如短歌を詠むことを始めたり。文体には文語体を選びて、辞書を引き引き、吾人にも電話やメールにて尋ぬること有り。

 「背伸びせで慣れたる口語にて詠ませ給へかし」と言へど「口語にては格好付かず」と答ふ。文語にて定型詩を詠みたる近代の歌人に現代も人気有る者多し。かく言ふ吾人も能力だに叶はば「白鳥は悲しからずや」の如き歌詠みたし。

 かやうなる事情にて定型詩におきては今なお文語文法廃れざるならんと思はる。アマゾンにて「文語」を検索しても最も目に付くは俳句のための指南書なり(それに継ぐは聖書なり)。

 また散文詩につきては如何。上田敏堀口大学の如きは現代にも人気有りと思はるれば、文語文の散文詩を実践し給ふ人も有るべしと思はる。但し未だ実見はせず。

 翻りて文語の随筆や小説の現在行はれざるは如何。これは、先ほどの詩歌の状況の裏返しなるべし。則ち、近代の文語体の小説や随筆に、現代の読者をして模倣せんと思はしむる作品の乏しきが故ならんと思はる。

 但しこれは勿論、魅力的なる文語散文が現実に乏しきにはあらずして、結局は文語散文の習慣が廃れしためにこの種の文章にアクセスせらるることの極めて稀になりたればならん(『舞姫』は例外中の例外なるが、かの作品が高校生をして文語文の魅力を伝えたるや否や、吾人覚束なし)。則ち文語の散文が近代の内に口語文に駆逐せられ、なほ倦まず文語文を書き続けたる商業作家の無かりしことが、詮ずるところ大元の原因なるべし。

 現代にても文語体の詩歌に魅力を覚ゆる人少なからず。また詩歌に現代的要素(コンビニ、携帯電話、コロナ禍等々)を題材として採り入れつつ文法は文語とする形式を面白く感ずる人もあるべし。されば、散文にて同様のことを成したる物にも興趣を覚ゆる人、定めて有るべしと思ふ。

 吾人その一人なれば、かやうに書きいだすこととなれる也。