文語文 練習帳

文語文を用ゐてエッセイ的の文章をつづる練習帳。

はしがき

  文語文にてエッセイ的の物を書いてみんとす。

 あくまで文語文にして、古文に非ず。則ちいはゆる古典文学作品の様態を真似せんとの志に非ずして、ただ文語文法を用ゐて現代の生活なり何なりを書き記してみんと思ひ至りし也。言はばそのコントラストが文章に興趣を与ふることを期待する訳也。そのため努めて卑近なるトピックを取り上げんとする気持ちまた無きにしも非ず。

 さて文語文は口語文中の文法的要素をただ機械的に置き換ふ(例:である→なり)のみに非ずして、寧ろ文章全体の構造骨格の見直しを要請す。則ち練習を要す。書き進むる内に語彙なり文法なりに変化の生ずることも当然予期せらるる訳也。


 只いづれにせよ継続せられでは話に成らぬ物也。

 

 

自転車教育を充実せしめよ

 近所の自転車屋に行きてヘルメットを購へり。自転車乗車時におけるヘルメット着用の努力義務化(4月より)に備へてなり。

 この度の措置は、自転車事故の継続的に多発せることを重く見てのことなるべし。

 ヘルメットの着用は事故被害の緩和を目的とするものにして、このことの重要性は言ふを俟たずとは言へども、一層重要なるは事故の予防なることもまた勿論なり。

 すなはち自転車教育なり。

 

 外を歩けばマナー違反、否マナー無知の自転車走行に嘆息せらるること多し。ながらスマホ、ライト不使用……殊に肝を冷さしむるは交叉点を減速なしに突き切る(または曲がる)さまなり。その先に人や車のある可能性を毫も思はざるその走りぶりは、吾人にとりて一種の戦慄を覚えしむるものなり。

 とは言ふものの、省みれば吾人もまた彼らと同様の非常識さを以て自転車に乗りたりしこと、認めざるを得ず。

 しかるに、吾人を「改心」せしめたるは何ぞや?

 それは、自動車教習所なり。

 教習の課程において、いかに執拗に左右確認を求められしことか! また車道を走る自転車の危険なることをいかに実感せしことか! あの体験のために、吾人の交通マナーへの意識は一新せられたりと言ひて過言ならず。

 されば、世間の無法なる自転車乗りの意識を改革せしむるには自動車教習所に放り込みて自動車の立場より自転車がいかに見ゆるかを認識せしむるが最上の方法なり、といふが吾人の信ずるところなれど……それは現実的の方策にあらざらん。

 されば、自転車専用の教習を義務化するといふが次善の策なるべし。読者諸賢も小学校にて経験せし人あらん。

 ただ吾人おもへらく、教習のキモは継続にあり。自転車の不注意運転のいかに危険なるかは、一回性の教習にて自覚せしむるあたはず。自転車免許制度が非現実的とあらば、保護者が一定時期付きっきりとなりて安全意識を叩き込むが、まさしく”保護”者としての義務にして使命なるべし。

 

 

良き正月の過ごし方

 年末年始の良き過ごし方につきては、多くの人の悩むところなるべし。吾人もまた同様なり。

 とは言へ、年末につきては一の正答あり。それは《身辺整理》なり――最も典型的には大掃除。物理的にも抽象的にも、旧年のやり残しをなるべく片付けて埃を払ふことによりて、清(すが)しき心境にて新年を迎ふることを得(う)べし。

 かたや、年始の過ごし方につきては明瞭の正答は無きやうなるべし。締め括り方に比べて、取り掛かり方には一つの正解は無しといふことならん。

 かやうなる場合には、目的を明確化すること有効なるべし。すなはち、正月休みにおいて最も避けたきことは何か――それは、通例の休日と同じやうに過ごすこと、是ならん。

 となれば、正月休みの良き過ごし方とは即ち、《通例の休日に為したることを避くること》と《正月ならではの事に積極的に取り組むこと》、この2点に従ふことなるべし。

 1点目の《通例の休日に為したることを避くること》は、例へば「休日はだらだらとツイッターを見がちなるよ」といふ人は、正月休みにおいては意を決してツイッターを遠ざけよかし。それは短期的には意志に反するやうなれど、長期的には《正月らしく休む》といふ目的を歩むこととならん。

 いま1点の《正月ならではの事に積極的に取り組むこと》は、典型的には初詣で これに当たらん。事実、初詣でに行くことによりて「とりあへず、1つは正月らしきことを果たせり」と安堵したる経験を有する人は多かるべし。

 ただし、ここに言ふ《正月ならではの事》とは、何も世間的の範疇に従ふ必要は絶えて無し。1点目(=通例の休日に為したる事)と重複せざるやうに、普段あまり行はざることをば取り上げて、それを自己において《正月ならではの事》と認定するもまた大いに可なり。例へば、「プラモデルを作る」とか、「『スラムダンク』を通読する」とか、「水餃子をたらふく食ふ」とか――とにかく何かを決めおきて、それに忠実に従へかし。さすれば、それを実行することによりて正月を満喫したる気持ちを味はふことを得べからん。

 ――といふわけにて、あと数時間にて新年を迎へんとする吾人は、何を以て己の《正月ならではの事》とせんか、思案を重ねたる最中にあるなり。

 

 

変はる習慣

 習慣とは、容易に変はらざるものにして且つひょんなことより一変もするものなり。

 自身を省みるに、ここ10年における最も大なる習慣の変化は、現金の使用にまつはるものなり。

 10数年ほど前、交通系ICカードを入手せり。しばらくは文字通り交通機関の運賃支払ひに用ゐるのみなりしを、やがてコンビニや本屋などの支払ひにも使用拡張するやうになれり。またこれに応ずる如く、それまでは「手持ちの現金にては払ひきれぬ高額支払ひの時に(のみ)用ゐむ」と思ひたるクレジットカードも、身近なる支払ひに用ゐるやうになるに至る。

 かくして現在の吾人が財布より現金を取り出だすは、自動販売機と近所の定食屋と、あとは週に一度の募金の際にほぼ限られたり。それまでは逐一の買ひ物のたびに現金を勘定したりしことを思へば、これ大なる習慣変化と言はざるべからず。

 

 また比較的近年の習慣変化として、「歯磨きの締め括り方」なるものあり。

 諸賢は、歯磨きを終へたる後、口中の泡をいかにし給ふや。吾人は従来、それを洗面台に吐き出だして後、更に水もて口中をゆすぎたりき。しかるに、「吐き出だすのみにて可なり。加へてゆすぎをもせば、歯磨き粉の抗菌成分の流れ落つれば宜しからず」との一説を目にす。ゆすがざらば口中の違和感著しかるべし……と吾人大いに疑念したれども、ものは試しと思ひてゆすぎを省きき。しかるに別段の違和感もなければ、以来そのやうにし来たる。

 これ2、3年前のことなり。30年間の習慣がかくもあっけなく変ずるを見て、習慣といふものの特質に感じ入るところありけり。

 

 

古文学習のdisadvantage(2)

 英語等に比して古文学習の有するいま一つのdisadvantageは、その教材にあり。

 中学や高校の授業に用ゐられたるリーダーを想起せられよ。それらの文章は、中には既存の文章を転用したるものもあるにはせよ、その大方は学習用に新たにあつらへられたる文章なりたるべし。またその内容は、エッセイや新聞記事に類する如きの、平易なる表現と構造とを有する文章が主なりたるべし。

 かたや、古文学習における教材は如何。

 そこには「学習用に新たにあつらへられたる文章」の絶無なることは言ふまでもなし。すべて、既存の文章の転用なり。

 しかるにその転用せられたる文章はいかなる性質のものなりや? たとへば古今和歌集、たとへば源氏物語――それらは、その時代の最高峰とも、または日本文学史を通じての最高峰とさへ称せらるる文芸的文章なり。当時の文化的エリートを想定して書かれたるものにして、当然、極めて高度の語彙と表現と構造とを有するものなれば、初学者、否、中級者の教材としても適当とは見なし難きものなること、言を俟たず。

 これこそ古文学習の大いなるdisadvantageなれ。

 

 前項にて論じたることと総合せば、外語としての古文学習のdisadvantageは、次の2点に在り。

(1)内容の甚だ旧にして、文章理解において手持ちの常識を利用せられぬ点

(2)文章の甚だ高級にして、平易ならざる点

 

 しかるに、かやうなる点は古文の根本的特徴にして不可避のものなるかと言ふに、さにあらず。そのことは、実はこのブログ自体が証明したることなり。すなはち、文語文は近代以後にも書き連ねられたるものにして、またその内容も文芸的のものに限らず。否むしろ、文語文の歴史全体を見渡したれば、むしろ非文芸的の内容と表現とを持ちたるものの方こそ圧倒的に多数派なれ。

 このことは、たとへば明治43年に出版せられたる柳田国男遠野物語』に収むる次の文章を読みたれば一目瞭然たるべし。

 松崎村に天狗森と云ふ山あり。其の麓なる桑畠にて村の若者何某と云ふ者、働きて居たりしに、頻に睡くなりたれば、暫く畠の畔(くろ)に腰掛けて居眠せんとせしに、極めて大なる男の顔は真赤なるが出で来れり。若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面(つら)(にく)く思ひ、思はず立上りて「お前はどこから来たか」と問ふに、何の答もせざれば、「一つ突き飛ばしてやらん」と思ひ、力自慢のまま飛びかかり「手を掛けたり」と思ふや否や、却りて自分の方が飛ばされて気を失ひたり。夕方に正気づきて見れば無論その大男は居らず。家に帰りて後、人に此の事を話したり。

 其の秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳きて萩を苅りに行き、さて帰らんとする頃になりて此の男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死して居たりと云ふ。

 今より二三十年前のことにて、此の時の事をよく知れる老人も今に存在せり。天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり。(第90条)

 

 しかれば、現状の古文学習の有したるdiadvantageを解消せんがためには、かやうなる(1)近代以降に著はされたる(2)実務的ないし通俗的なる文章を教材とするに如くはなし。是非お試しあれかし。

 

 

古文学習のdisadvantage(1)

 古文を学ぶことは、しばしば外語を学ぶことに喩へらる。確かに、日常使用の言語とは異なる文法と語彙との習得を要するといふ点において、古文は我ら現代人にとりてまさしく外語に異ならず。

 しかるに、たとへば英語を学ぶと古文を学ぶとは等しやと言ふに、さにあらず。

 と言へば、「いかに古しと雖も古文はこれ日本語、我らの用ゐる現代語とも共通項の多ければ、英語よりも学びやすし」といふ意見を予期する人も少なからざるべし。確かにさやうなる点もあるにはあれど、ここにて吾人の述べんとするはその方面にあらず、むしろ英語に比べて古文の学びがたき点につきてなり。

 内容の時代的性質――これぞ一般の外語と古文とを大きく隔つる点なる。

 英語の教科書に載せられたる文章は、内容的には現代の日本語話者にも苦なく理解せらるるものなり。しかれば、言葉(文法と語彙)の不明点を解消せば、その文章をスムーズに理解することを得(う)。また逆に、文章内容のスムーズに理解可能なることが、言葉の上の不明点の推測や解消を易からしむることも多し。

 これに対して古文の場合、源氏物語ならば千年前、奥の細道にても三百年前の文章なり。いかにその内容の普遍なりと雖も、我々は当時の社会を知らず、政治を知らず、恋愛を知らず、心性を知らず――すなはち当時の「常識」を知らず。

 この「非常識」の状態に在りて文章を読まんとすることは、いはば背景知識なくして純粋に言語知識にのみ拠って文章内容を理解せんとすることなり。この点において、古文の学習は外語一般の学習に比して大なるdisadvantageを負ふものと言ふべし。

 この他に、古文の学習には いま一つdisadvantageあり。これにつきては次稿にて論ぜんとす。(続く)

ガラケー者として生く

 吾人はいはゆる嫌煙家なり。その憎むべき点を挙ぐれば枚挙に暇あらず。されどいづれも月並みの意見なればここには割愛す。

 喫煙の害のこれほどまでに取り沙汰せられながら喫煙習慣の容易に絶滅には至らぬを見て、かねてより不可思議の思ひをなせり。しかるに近年、思ひもよらぬところを契機として、吾人は彼ら喫煙者の現況と心境とに思ひを致すこととなれるなり。

 その契機とは、スマートフォンなり。

 

 吾人はスマートフォンを持たず。また今後も持つつもりはなし。その理由もまた一つ二つにはあらねど、ここにては割愛せん(白状せば、その内のもっとも大きなる理由は「もし己がスマホを持たば必ず今以上のネット中毒に陥るべし」といふ懸念なり)。ただ一言(いちごん)せば、かやうなる高性能(その結果として高価格)の小型コンピュータを、世間の人々が総じて個人的に携帯せるといふ現在の状況をこそ、吾人はむしろ異常と思ひたるなれ。

 スマホの波はあまりに高し。還暦を過ぎたる吾人の父母さへ、先ごろ相ついでガラケーよりスマホに乗り換へたり。さようなる状況にも、あくまで「他人は他人、吾人は吾人」の態度を貫きて今に至れるなり。

 されどこのごろ徐々に、さやうなる態度を世間が許さざるやうになり来たるを、肌に感ずるようになれり。

 例へばコンサートのチケット。近年ことに問題となりたる転売行為なるが、これへの対策として、イベントの主催者はチケット購入者の身元確認を取るやうになれり。それ自体は大いに結構なることなれども、問題はその身元確認をスマートフォンによりて行ふところの出(い)で来たれることなり。換言せば、スマートフォンを持たざる者はそのイベントの客としてハナから対象外――といふ事態が、すでにそこここにて生じつつあるなり。

 また、これはつい先日の出来事なり、吾人は近頃ハマりたる『タローマン』のイベント(その名「タローマンまつり」)に足を運べり。しかるに、ウェブ上のアンケートに回答せばグッズ(めんこ形シール)をプレゼントすといふ告知を目にして、嬉々としてガラケーを以てそのサイトにアクセスせり。

 しかるに、アンケートのうちのある項目を入力するに能はざること発覚せり。すなはち、ウェブアンケートの仕様自体がガラケーを想定せざるものとなりたるなり。結局、めんこ形シールは指をくはへて諦むることとなれり。

 

 さて、かやうなる仕打ちを受けてガラケー者はいかなる感情を抱かんと、諸賢は想像し給ふや? 「ガラケーはもはや不便なり、いざスマホに切り替へん」?

 ――否、事実は不合理にも、その反対なり。

 理不尽の仕打ちを受くるたびに、ガラケー者は「ああ、かやうなる上は最後の最後まで徹底抗戦すべし」との思ひを、むしろ新たにするものなり。しかしてここに、あの憎き喫煙者の現在の心境を相察することとなれるなり。

 

 

とんびの勝手

 吾人これまで、鳶のピーヒョロロロと鳴くは空を飛びたる際のこと、更に言はば宙に円を描ける際のことと思ひきたれり。

 さるを今日、鴨川のほとりにて目撃せるは、街灯のカサの上にたたずみながら時折ピーヒョロロロと鳴く鳶の姿なりき。意表を突かるる思ひを成したり。

 「横着なる鳶よ」と呟かるれども、先方にしてみば「さやうなる約束をしたる覚えなし」とも言ひつべきか。

 

 

情けは人のためならず

 マスク生活も三年目となれり。

 吾人いままで、マスクにとりての敵は冬なりと思へりき。隙間より洩る息のために眼鏡の曇る故なり。

 しかるに、2022年の6月を迎ふるに至りて、真の敵は夏ならしと感ず。言ふまでもなく、この時期尚早の酷暑のためなり(吾人の暮らす近畿地方では、6月29日に梅雨明けせり・・・もとい、梅雨には入(い)らざりきと見るがより適切ならん)。

 無論、現代日本の夏におけるマスク着用の危険なることは夙に重々指摘せられたりといへども、吾人これまではそれを実感することなし。

 しかるに先日、教室にて講義をしながら、いつしか頭(かしら)の のぼせたるが如くボオっとせるを自覚しつ。慌てて傍らの麦茶を口に含みて以て難を逃れたり。

 しかしてその麦茶は――これ授業開始前に学生諸君に「熱中症対策に水分補給を励行すべし」と喚起せんがために持ち込みたる物なるは、皮肉と言ふべし。

終はり良ければすべて良し

 今年もまた例年のごとく、何をしけりとも思はれぬままにゴールデンウィークを過ごしぬ。されど、思はぬかたに光明あり。

 吾人にとりてのゴールデンウィーク最終日たる5月5日はこどもの日、その前日に通りかかりたる銭湯に、翌5日には菖蒲湯をもよほす由、張り紙にて告知せり。これを見て、明晩にこの銭湯に赴かんことを思ひつきたり。その銭湯は自宅の近所にあれども今まで訪れたることなし、良ききっかけなりと思へり。

 かやうに何の気なしに、場当たり的に連休の締めくくりを銭湯にて過ごす運びとなれど、これが大正解なりきとは豈に図らんや。

 まづは、広き浴槽に体を伸ばすリラクゼーション効果を、改めてまざまざと感じたり。さは言へど、普通ならば一つの浴槽にさのみ長くも居る能はず。しかるに銭湯には複数種の湯あり、これも広さと併せて家風呂と異なれる点なり。軟水風呂(泡風呂)と炭酸風呂、これに湯冷ましの水風呂を巧みに織り込むことによりて、常とは異なる風呂の楽しみを満喫せるなり。

 風呂上がり、瓶の三ツ矢サイダーを飲むころには、あたかもこの連休全体が素晴らしかりつるがごとき充実感を感ずるにまで至れり。

 また丹念なる入浴にて疲労せしかば、布団に入(い)りては急速なる入眠に至りしことも特筆すべし。

 かやうに、悔いのくすぶるゴールデンウィークは、何気なくシメに置きたる銭湯一つにて大逆転せり。終はり良ければすべて良しとは、まさにこのことなるべし。

 ただし、一点 悔いの残ることあり。それは、比較的遅き時間に行きたれば、飲み物の選択肢の少なかりしことなり。フルーツ牛乳もコーヒー牛乳も、すでに品切れなりき。しかれば近々再訪せん折には早き時間を狙ひ、無事 風呂上がりのコーヒー牛乳を確保すべしと計画せり。

ポケモン図鑑の文語文(前編)

 吾人、テレビゲームは不得手なれど先月より熱心に取り組みたるソフトあり。『Pokémon LEGENDS アルセウス』是なり。

 ポケモンの最初のシリーズたる『ポケットモンスター 赤』『ポケットモンスター 緑』の発売せられたるは1996年2月、吾人は小学2年生なりき。発売当初はさほど話題作にもあらざりしかど、やがてブームと化し、吾人も親にせびりて「緑」を買ひ与へられたり(弟は「赤」。ゲームボーイを買ひたるもこの時やも知れず、記憶定かならず)。

 次作の「銀」も買ひたれど(弟も「銀」)、年の長じたるためもありてか、「緑」ほどは熱中せず。やがてポケモン(を含めテレビゲーム一般)より離るることとなれり。 

 その吾人が今になりてポケモンの新作をプレイするに至れる、その理由はただ1つ、本『アルセウス』のポケモン図鑑は「古文」にて書かれたりとの情報を得るによりてなり。

 ポケモンをプレイしたる経験なき人のために一言せん。ポケモン図鑑とはその名の通りポケモンの情報を載せたる図鑑にて、ゲーム中にてプレイヤーに与へらるるものなり。あるポケモンにつきて特定のタスクをこなすに、そのポケモンの項目に説明文 生ずといふ仕組みなり。『アルセウス』においては、その説明文が「古文」すなはち文語文にて書かれたりといふ。

 早速インターネットにて検索するに、その情報の事実なることを確認す。よりて、その実態をより明らかに知らんがために、20数年ぶりにポケモンの新作をプレイする運びとなれるなり。

 実際にプレイして得たるポケモン図鑑の例を下に示す。

 

 

 これを見ても知らるる通り、確かに現代口語とは異なる、文語文の調子を以て書かれたり。かやうなる書きぶりは、このピカチュウの説明文に限らず、程度差こそあれポケモン図鑑の全体にわたりて見らるるなり。

 ここで留意すべき点あり。ポケモンは日本有数の人気コンテンツなりといふことなり。事実、ファミ通.comに拠るに、『アルセウス』(2022年1月28日発売)は、同4月24日時点にてすでに国内販売が222万本を超えたりといふ*1。すなはち、現在の世の中にて最も広く読まれたる文語文はポケモン図鑑なりと言ふを得(う)べし。

 上記のピカチュウの例の如く、『アルセウス』のポケモン図鑑は文語文法を用ゐて書かれたり。ただしまた、文語文法を貫徹して書かれたりとは思はれず、又たとひそのやうに書くとも多くのプレイヤーにとりては意味を取りがたきものとならん。

 つまり、文語文の調子を出しつつも、現代語話者の知識にて理解せらるる範囲の文法によりて、「塩梅」して書かれたることが予想せらるるなり。

 吾人、その「塩梅」の実態解明を試みんとす。(つづく)

*1:https://www.famitsu.com/ranking/game-sales/ 2022年4月30日閲覧。

通販の落とし穴

 2020年・2021年と、"当たり" の買ひ物につきて記事をものせり。

 されど、アタリあらばハヅレもあるが買ひ物なり。今その一例をここに示さんとす。 

 それは、某社のBluetoothスピーカーなり。とは言ふものの、スピーカー自体の品質に不満はなし。ただ問題は、これを中古にてネット購入せる点にあり。

 品質「非常に良し」と評するものを注文したれど――実際、届いた品は新品と同様に見ゆ。しかれど、この品を前にして吾人、何とも言はれぬ違和感を覚えたり。

 その正体はやがて明らかになれり。

 匂ひなり。

 スピーカー本体と充電コードとより、強烈なるタバコ臭 発せられたり。手近のウェットティッシュにて拭ふに、あからさまに茶色く染まれり。数度丹念に拭へど匂ひは消えず。

 またこのタバコ臭の醜悪なる点は匂ひそのものにはあらず、むしろその「伝染性」にあり。すなはち、スピーカーと物理的に接触したる物体に、匂ひ伝染せり。これ悪辣と言はざるべけんや!

 このことを認識したる瞬間、吾人は検索魔となりて この消臭法を調査せり。その結果、「新聞紙にくるむ」と「消臭剤を染み込ませたる布にて拭ふ」の2方針にて立ち向かふことと決せり。

 前者の「新聞紙にくるむ」とは、スピーカーに染み込みたる匂ひを新聞紙に移らしむ、すなはちタバコ臭といふ悪霊の「形代(かたしろ)」として新聞紙を利用する方法なり。一晩置きて新聞紙を剥がして嗅ぐに、確かに紙にタバコ臭の移りたるを認知せり。新聞紙は優秀なる形代たること、ネットにての評判に違(たが)はず。

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 かくして上記2方法にて攻略を試みたれど、完全除去への道は容易ならず。おほよそ気にかからざるほどまでに低減せしむるに、ひと月以上を要せり。今も紙類のやうに匂ひの伝染しやすき物の上には置かぬやう留意す。

 実に骨折りを強(し)ふる買ひ物なりきと言ふべし。通販は匂ひを映さず――諸兄 以て戒めとせよ。

 

 

If you want it.

 いま、ウクライナにおいて戦争行はれたりと聞く。

 戦火は(近年に限りても)これまでにも世界の様々なる国と地域とにおいて生じ来たること、知らざるにはあらずといへども、これほどまでに「侵略」といふ意図をあらはにして、しかもロシアといふ超大国が戦争に乗り出(いだ)したるを目にして、これまでに経験なき衝撃と恐怖とを受けたるなり――もっとも、実際に戦争の場に直面したる人々のことを思ふに、恐怖なる言葉だに軽々に用ふなと感ぜらる。

 この情勢にありて、戦火の中にあらざる人間として、また戦火と永久に無縁なりとは断言すべからざる(誰か断言すべけんや?)一人の人間として、どのやうに今ふるまふべしやと、考へを連ぬれども、ただ恨みを――国家のもとに人と人とが殺しあひ、生活が奪はるといふ事態が、何ゆゑに許容せられ、それどころか積極的に敢行せらるやといふ恨みを、ただ胸の裡に抱へて過ぐすより他のこと未だ無し。

 

 戦争のことを考ふる時、吾人の常に想起するは、ジョン・レノンの「Happy Christmas (War is Over)」なり。この歌にて繰り返さるる、

 War is over, if you want it.

といふコーラス、その「if」の重さに、いつも苦々しき思ひを感じたるなり。

 平和を want せざる人の存在すること自体、吾人の理解を超えたることなりといへども、さやうなる人は実在し、かつ かれが大なる権力を持ちたる場合には戦争は現実のものとなるといふことを、世界が目撃したるが今の状況なり。

 しかれども、戦争は一人にては起こすあたはずといふことも事実なるべし。そこにまた、この歌を歌ひ続け、訴へ続くる意味もあるべしと信ず。

 


 

 

2021年の "当たり" 買ひ物

 この年の当たり買ひ物は――厳密にはモノにはあらざれど――何と言ひてもYouTubeプレミアムに尽きたり。これに就きては当時記事にもしつ。

 上の記事には書かざりしかど、YouTubeプレミアムにはYouTubeミュージックといふ定額配信サービス(いはゆるサブスク)も付属せり。いはばオマケにて、当時 単にYouTubeの広告を除去したかりし吾人には「無用なり。YouTubeミュージック無しにして料金安きプランあれかし」とも思ひたりき。

 しかれど、実際には吾人、このYouTubeミュージックを大いに重宝することとなれり。

 それも道理、元々吾人はYouTubeを仕事中のBGMとして活用したれば、用途としてはこのYouTubeミュージックにて事足る点多し(YouTubeミュージックは、YouTubeの動画音声も流すことも得(う))。

 その結果、YouTubeプレミアムを契約することに因るYouTube視聴激減といふ、一種の逆転現象 生ず。その反対に、現在の吾人にとりてYouTubeミュージックは生活に欠かせぬものとなれり。今や「YouTubeミュージックのみにして料金安きものあれかし」とさへ考ふることあるなり。

 

 

任務のための夜更かし

 いま、12月24日の27時、すなはち25日の未明なり。

 かやうなる時間に起きたるには一つの理由あり――家人の寝静まるを待ちたるなり。

 しかるに、何ゆゑに家人の寝静まるを待ちたるか。それは今日の日付けを見るに明白なるべし。しかり、相手に悟られざるやうに枕元にプレゼントを置かんがためなり。

 

 子供の頃は、クリスマスは年に一、二をあらそふ楽しみなりき。「サンタに何を貰ふべしや」、これは一年の内の短からざる期間に我が胸中を占めたる重要議題なりき。されど長ずるにつれて、クリスマスへの特別なる感情は急速に薄れゆきたり。

 しかるにここ数年、再びまたクリスマスが吾人にとりて大きなる意味を持つやうになれり。さうしてその意味は、幼かりし頃とは趣を全く異とするものなり。

 かつては、プレゼントは貰ふことにのみ価値のあるものなりき。対するに、今の吾人にとりてのクリスマスの楽しみは、プレゼントを贈ることにあり。贈ることには貰ふことに勝る楽しみのあるなることを知りたるは、大人になることの価値の一つと思はる。 

 無論、人に贈り物をすることはクリスマスに限りたることには非ず、また大人にならざる以前より経験もあり。しかるにクリスマスのそれを特別たらしむるものは何か。

 それは、他の諸々の贈り物がただ吾人よりの贈り物なるに対して、クリスマスの贈り物は、吾人よりにはあらで「サンタクロースよりの」贈り物なりといふ点なり。この日、吾人はただ人に贈り物をするにはあらで、サンタクロースの一人として、その任務を全うす。

 ここに、いはば社会の幸福の形成の一端を担ふとでもいふやうなる、誇りと感慨とをもよほしたるなるべし。

 さてそろそろ仕掛けに向かはん。

 

 

持ち越されたる感情

 わあああああああ、と泣き声をあげながら目覚めたり。11月のある明け方のことなりき。

 

 号泣の由来は、言ふまでもなくそれまで見たる夢にあり。もしそれ過去のトラウマやら将来への不安やらを反映したる夢ならば、一種の"さま"にもならんが、実際には、全くのフィクションの夢なりき。

 目覚むる直前の映像を、吾人は今も脳裏にありありと描くことを得(う)

 

 それは夕暮れの野原なり。空は暗き紅に濃紺の交じりたる。遠くには黒き影絵と化したるビル幾棟か突き出したり。吾人の視点は、その野原をやや上方より見下ろす位置にあり。野原の中央には、一匹の茶色なるトイ・プードルの仔犬ありて、吾人の方を見上げたり。

 ・・・この一情景に吾人の涙腺は崩壊せるものなるが、その理由を説明するには、この夢を ま少し遡る必要あり。

 この仔犬の話題は、同じ夢のearlier partに出でたりき。さうして、その夢の中の"設定"として、「その仔犬は某日に死す」といふことすでに決定しゐたるなり。

 さて、先の野原に吾人の居たる時、それこそ上記の「某日」、すなはち仔犬の死すべき日なれ。その日に仔犬の現れたるは、すなはち、世を去る前に彼は吾人に会ひに来呉れたるといふことなり。

 その黒く丸き視線を受けたる瞬間に、吾人 感情をあらはにしつつその犬のもとに駆け下りんとしつるに、目さめぬ。

 

 かくして、弾けたる感情のみ、現実世界に持ち越されたるなり。しかして仔犬は今だに瞼の裏に在り。